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senseとbookに関するgitanezのブックマーク (10)

  • バタイユ/酒井健: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 バタイユは、生を個体の問題としてではなく、生そのものの連続性として扱う。 酒井健さんの『バタイユ』を読んで、いちばんつよく感じたのはそのことでした。 そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。 脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。 こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。 バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように

  • 文字の官能性、書物としての身体: DESIGN IT! w/LOVE

    と書いたこととも重なってきます。 このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。 その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。 書籍の官能書籍も、文字も、当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。 例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語

  • もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モノとワザ」。書店でこのキーワードに惹かれて、僕はこのを買いました。 買って読んでみて、買ってよかったなーと思いました。僕が触れてみたいと思っていたことが、このには書かれていたから。 このの著者、川田順造さんは文化人類学の大家、クロード・レヴィ=ストロースに師事した文化人類学者です。このでは、西アフリカ、フランス、そして、日という3つの地域を「文化の三角測量」をしながら、モノとワザの関係に潜む「身体技法」に着目し、グローバリズムや情報資主義によって失われつつある、各地域の文化に根差したモノとワザに焦点を充てています。 文化とその地域のモノとワザの関係性ということでいえば、例えば、著者の師でもあり、日文化に深い愛着と知識をもったレヴィ=ストロースは、西洋と日

  • 多読術/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 これはおもしろかった。すごくおもしろかった。 あとで詳しく書きますが「はノートである」ですよ。服をコーディネートするようにもコーディネートするですよ。これはおもしろい。 『多読術』というタイトルですが、これは多読に関するではないと思います。 それどころか、読書に関するとして読む必要さえないと思います。 何か未知のものに触れるときの方法のひとつだという風にも読める。僕はそういう風に読みました。 読書は「わからないから読む」。それに尽きます。 は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。 読書は旅のようなもので、「無知から未知への旅」と松岡さんはいいます。 無知からというのは当然として、その先にあるのが単なる知ではなく、未知であるところがいい。 僕も「デザイン

  • 手仕事の日本/柳宗悦: DESIGN IT! w/LOVE

    なんて淋しく切ないなんだろう。 このはかつて存在した日というものの遺書のようです。 そして、最初に書いておきますが、このはこの国でものづくりに関わるすべての人びとが一度は読んでみるべき一冊だと思います。 私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日の固有な美しさを守るために手仕事歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。 それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。このは皆さんにそれをお知らせしようとするのであります。 このに関しては1つ前のエントリー「模様を生む力の衰え」でもすこし取り上げましたが、以前に『工藝の道』を紹介した日民藝運動の創始者・柳宗悦さんが、大正の終わり頃から約20年をかけて日全国を

  • 山水思想―「負」の想像力/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「日画の将来はどうなるんだ」 「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」 そんな1970年に亡くなった日画家・横山操の最期の言葉を出発点として『山水思想―「負」の想像力』というは、「雪舟から等伯への道程」を追いながら、中国から渡来した水墨画がいかにして日の水墨画となったのかを問います。そして、そもそも中国における水墨画において「山水」とは何であり、日はそれをどう日の山水に変換したのかと、日における山水画の変遷を辿ります。 とはいえ、ここでの「日画」の「画」の部分は何に置き換えて読んでもいいと思います。日デザインでも、日製品でも、日ITでも、日技術でも、日のブランドでも。いや、そう置き換えて読むことができるかどうかがこのを読む

  • 空海の夢/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 木から降り二足で立ち、直立歩行ができるようになった裸のサルは、両手が自由になって道具を操ったり指折り数えることができるようになり、目線が高くなって遠くまで見渡せる両眼視を手にいれ、声帯筋が直立することで声の分節化が行えるようになり、その声の分節パターンが大きくなった脳に記憶されることで言葉を操れるようになりました。 しかし、 まったく「坐る」とは東洋の恐ろしい発見だったと思う。 今日、暗く冷たい伽藍のなかの如来像や阿弥陀像をみてもわかるように、仏僧たちは直立歩行で自由になった手を結びなおし、両眼をあえて半眼のソフトアイにして、繰り返し経を唱えることで自由な発話・思考から離れることで、進化を抑制しようとしていたようにさえ思えます。 土橋寛さんの『日語に探る古代信仰―フェテ

  • 木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 先に「ほんまに賢いゆうのはどういうこと?」でも紹介しましたが、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』は、法隆寺、薬師寺の修復・復元に関わり、最後の宮大工棟梁といわれた故・西岡常一さんが77歳当時(1985年)に語った話を口述筆記した一冊。 これを単なる仏教建築に関するだと思ったら大間違い。ものづくりをする集団をまとめる棟梁として、木のこと、人のこと、そして、神や仏のこと。すべてにおいて学ぶものがあります。 「棟梁は、木のクセ見抜いて、それを適材適所に使う」ことと語る西岡さんは、また「木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません」とも言います。 ふつうの大工と宮大工の違いを「仕事とは『仕える事』と書くんですわな。塔を建てることに仕えたてまつるということです。もうけとは違い

  • 二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 なんで、いままで、このを読まなかったんだろう。そんな後悔をしてしまうくらい、読んでよかったと思えるでした。 松岡さんの対談は、これまで内田繁さんとの『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』や茂木健一郎さんとの『脳と日人』を読みましたし、佐治晴夫さんの対談も養老孟司さんとの『「わかる」ことは「かわる」こと』を先日紹介したとおり、どれも面白く、とても興味を惹かれる内容でした。 でも、このはそのどれにも増して、素敵な一冊でした。20世紀の終わり(このの元になった対談は1997年の3月から1998年の3月の1年間で6回に分けて行われています)に1日の終わりに位置する「トワイライト」を1つのキーワードにして行われた対談は、佐治晴夫と松岡正剛という2人の人間による声の重な

  • 想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない: DESIGN IT! w/LOVE

    茂木健一郎さんは『クオリア降臨』のなかで次のように書いています。 物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。 と。 科学と文学『クオリア降臨』を読んだのはもう1年以上も前のことですが、ずっとこの文章が気になっていました。よくある理系だ文系だという議論が無意味に感じてしまうのは、この言葉に対する共感があるせいだと思っていました。数学者であるロジャー・ペンローズが意識や心、そして、量子重力論を語るのに、計算不可能性をもちこむことに惹かれるのきっと同じ理由なのだと思います。 そして、先日読んだ『生命記号論』にもこんな心を惹かれる言葉がありました。 失敗をしてしまう傾向は、この世界におけるすべての発展の根底に横たわ

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