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studyに関するgitanezのブックマーク (83)

  • キャリア教育とリベラルアーツ教育(学ぶことの意味) | 経験デザイン研究所

    昨日学ぶことの意味を失うみたいなことを書きましたが、その補足です。 最近専門学校では文科省の指導も含めて「キャリア教育」への取り組みがかまびすしい。現在問題になっている「ニート」や「フリーター」対策としては重要なテーマである。 それに対して「リベラルアーツ教育」という考え方がある。キャリア教育とは対極にある、ある分野の職業に特化せず、学際的な教養を通じて自由な人間を育てようという教育である。来学びとは「特定のスキル」を身につけることではなく、「どのような場でも生きていける振る舞い」を学ぶところではないのだろうか。 デザインを学ぶということは、確かに特殊な技能を身につけると思われがちであるが、実は違う。おじさんたちは学校で習った技術を使ってデザインしている訳では無い。学生時代にデザインを通じて身に着けた「振る舞い」をもって、更にそれに修正を加え、経験と知恵を足して仕事をしているのだ。Ill

  • 「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「僕にはそれは無理」「私にはちょっとむずかしすぎる」 うーん。なんでそう自分を決めつけちゃうんでしょうね。自分を一点に縛りつけようとするんでしょう。 そのほうがラクだからなんでしょうね、気持ち的に。 私は○○だ。○○はそれはできない。だから、私はそれができない。 と言い訳を組み立てた方が「できない」ということが理屈にあってて仕方のないことだという気がしますからね。 実際にはそうはいってても「できない」はずのことが「できちゃった」なんてなる日が来ないとは限らないんですけど。人って自分で自分をいくら決めつけたところで変わるものですから。 その意味で、ある時点であることができた/できないということで、自分の可能性なりタイプなりを固定してしまうことには大した意味はないし、むしろ、そ

  • 2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「今日のびっくりどっきりメカ発進!」でのびっくりどっきりもあって、今日はなんとなく気分が冴えませんでした。 世の中の人って、いまや予測ができないこと、計算できないことを、あんな風に厭い、恐れるものなんでしょうか。何かを知るということのリスクを極力減らそうとし、自分だけは安全で楽なところから物事を操作しようとするのでしょうか。 はっきりいって、それなら学習や勉強をする必要なんてないと思います。 「多読術/松岡正剛」というエントリーで、松岡正剛さんが〈読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、を読めばそのが自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です〉と言っているのを紹介しました。リス

  • 『◆メタ認知 ソースモニタリング』

    メタ認知でソースモニタリングというのがあるのを知った。 自分の知識などが何処から取得されたものなのかを 意識する能力らしい。 しかし、実際どういう役に立つのか不明だったが HIROKI tanahashiさんの記事を読んでなるほどと思った。 --------------------------------------------------------------------------------------------- を読む行為が作法をようする身体的な活動になっている。もちろん、の場合にだけ作法があるのではなくて、実は人間って情報を摂取する行動をその作法と同時に行っていて、かつその作法と同時に記憶もすれば思考もしているのだと思います。 この作法というのが先の「場」、「過程」につづく第3の情報摂取の方法として見落とせないものだと思っています。 DESIGN IT! w/LOVE

    gitanez
    gitanez 2009/04/24
    メタ認知と学習
  • 物学(ものまね)が咲かせる花: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 イタリアのデザイナー、アキッレ・カスティリオーニは物を扱う人びとの身振りを模倣することで、その知恵を感じ取りました。 ごくまるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。 人の動きを模倣するという意味では、日にもそうした伝統をもった芸能があります。 みなさん、何かわかりますか? 能です。能楽師は古くか

  • 真似からはじまる自己の再認識: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 かつて読んだはずなのですが、いま読み返しても感心してしまいます。 まず、自分の信義においてその対象が「当に大切なこと、あるいは価値があるもの」と思うのであれば、徹底的に模範として活用してみること。次に、ひとはどんなに他人のマネをしてもマネし切れない自分を発見するものです。そのギャップこそ他ではない自分自身です。そのとき初めて自分の真実を発見した瞬間と言えるのではないでしょうか。その後はその芽を試行錯誤しながら、育てていく中にだれもマネの出来ない独自性が出来上がってくるように思えます。 「独自性」というキーワードで書かれたものですが、まずは守・破・離や、真似から話を進められています。最近、自分でも「稽古不足 」や「型と形」、「型とオリジナリティ(あるいは「他者の経験から学ぶ

  • 稽古不足: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 稽古の「稽」は「考える」という意味です。「古を考える」「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」が、漢語「稽古」の原義だといわれます。これは常に新しい時代よりも古い時代のほうが優れていたと保守的な考えをもつ中国ならではの姿勢だと感じます。 稽古の喪失ただ、常に古い時代のほうが優れているかはともかくとして、確実に過去のほうが優れていたこともあったはずで、それに学ばないのは単純にいって損じゃないかと思います。 とにかく、自分たちの現在が過去と陸続きであるという感覚をもてない人が多いのかなと思います。自分たちがどう考え、どう生きるのかということがいかに過去の恩恵を得ているかということに無神経なまでに鈍感です。 茂木 いま、われわれが持っている道具とか方法というのも、結局

    gitanez
    gitanez 2009/03/22
    恋はいつでも初舞台
  • 人間能力向上のための教育について: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日は「第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の反省会でした。 そこで話題にあがった内容をちょっと僕なりに展開。 話題になったのは「サービスが行き届きすぎている」という話。 何から何まで手助けしてくれ、人間が自分で考えて自分の力でやるという機会が減っているために、普段の生活のなかでいろんな人間的能力を向上する機会が失われているのではないかという話でした。「人的資源の生態学的問題」で書いた「地球資源の問題が社会的問題であるのと同様に、社会的レベルでの人的資源の不足という問題として社会生態学的に捉える必要があるのではないか」ということともつながる話。 どういうことか、いくつか例をあげるなら、 キーボードを叩いて変換すれば文章は書けるので、漢字が書けなくなった携帯

  • 型とオリジナリティ(あるいは「他者の経験から学ぶ」): DESIGN IT! w/LOVE

    ことばは人間の感覚をバラバラに分解してしまいもするが、それを再びつなぎとめるのもことばだったりします。 たとえば、『古今和歌集』にもこんな歌がある。 折りつれば袖こそにほへ 梅の花ありとや こゝに鶯の鳴く 枝を折った際に袖に香りが移ったのか、花はここにはないのに花があるかのように鶯が鳴いている、という歌。梅の香(嗅覚)と鶯の声(聴覚)が結び付けられることで、その情景に欠けた梅の花(視覚)を想起させている。 和歌のデータベースと記憶の検索システム梅といえば鶯というように、和歌の世界では、ひとつのことば(イメージ)が別のことば(イメージ)を想起させるデータベースのような構造があります。そこでは梅の花ということばは、梅の香や鶯の声の記憶を呼び覚ますキーとなる。 もちろん、ことば=イメージをつなぎとめているのは、人間の身体的な記憶であって、その記憶は個々人の違いをこえて伝播していきます。実際には個

  • 方法依存症: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 方法論の収集ばかりに明け暮れている人を、仮に方法依存症と名づけてみたい。 方法依存症に値するもうひとつの条件は、方法論を収集している割にその方法を使ってうまくいったことがすくないということである。 これはもったいない。意欲があるのに空回りしてしまっているのだから。 そこで、このことについてちょっと考えてみた。 まず、そのことを考えていくにあたって、方法を区別してみる。 形式知化された方法と暗黙知的な方法に。 形式知的な方法:例えば、KJ法形式知化された方法とは、方法に含まれるタスクの内容が明文化でき、かつタスクを行う手順やプロセスが明記されているものをいう。逆に暗黙知的方法とはそうでないものを指している。 例えば、KJ法であれば、 最初に単位化された情報を書き込んだ束を作成

  • 人的資源の生態学的問題: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、このブログのエントリーの人気の傾向ははっきりしていて、歴史系・民俗学系のエントリーはことごとく無視に近い状態にある一方で、「読解力」だとか「問題解決」だとか、「行動力 」、「フレームワーク思考」などといったライフハック系とも呼べるようなキーワードが含まれるエントリーには割と恒常的に人気があるように感じられます。 こうした傾向は以前からあって、昔のエントリーでも「粘り強さ、継続性」とか「アウトプット速度」とか「PR下手で損してる」とか「」なんていうフレーズがタイトルに入っていると人気は得やすいようです。 これらの問題は単に個人レベルだけの問題なの?人気はないよりあったほうが書くモチベーションも上がるが、かといって人気を得るためにそうしたエントリーばかりを書こうという風に

  • 内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 内容的には前回同様ですので、どんなことをやっているかは以下エントリーを参照。 前回開催のご報告 ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ2日目 今回の参加者のブログ ユーザー中心のWebサイト設計に参加して考えたこと4つ(あとちょっと良いサイト)ユーザー中心のWebサイト設計のワークショップに参加した(PLANET-110)ユーザー中心のWebサイト設計に参加してきた その1(大人なクロログ)ワークショップでペルソナつくり(blog-m) みんなで手を動かしながら考える僕はこのワークショップの目的を「デザインの方法を使って、人と物のあるべき関係性を実現する方法を学んでいただく」ことだと考えています。 デザインの方法に

  • 基礎デザイン学: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 こういう捉え方、好きだな。 私は、デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起をたえず繰り返してきました。(中略)デザインという行為は、基的に、人間の生命や、生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係を包容する「あるべき生活世界の形成である」に広く深くかかわるものだといえます。 1953年に「芸術と技術の統一」というバウハウスの理念を引き継ぐ形で、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長となって設立されたウルム造形大学で学んだ向井周太郎さんは、社会的改革という理念を失い単なる商業

  • 荒・狂・若: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 実はこれ、ひとつ前の「感受性と行動力」のエントリーの一部として書いたのですが、長くなりすぎたので別エントリーに切り出し。なので、あわせて読んでいただくと、これ幸い。 その「感受性と行動力」では、次々と入ってくる情報を適宜処理できないのは情報を行動に結びつけて捉える力が衰退しているからで、その結果、情報から何かを感じ取る感受性そのものも鈍化していっているのではないかという仮説について書きました。 端的にいって、おとなしすぎるのかなと思います。 また、慎重すぎるし臆病すぎる。すべてを頭だけで理解しようとするし、頭で理解できることとできることの差がわかってないのかなという気もします。 そんな完璧にコントロールされた状態ではなくて、すこし荒れたところがあっていい。 いま、私たちの誰

  • 感受性と行動力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。 というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。 まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。 そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。 外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。 「なぜシャ

  • 視野は広くを意識して: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 僕もそれが「楽しい」と思います。 私は「面白い」と感じたら何でも顔を突っ込み、手を出してしまう。いつの間にか熱中している。「面白い」と感じる、「興味を持つ」という行為のハードルがとても低いのだろう。こうやって好奇心旺盛で生きていくのは、時に体力気力がついていかなくて疲れると感じることもあるが、やっぱり楽しい。 前にも書いたけど「疲れる」よりも「憑かれる」がいいよね。何かに取り憑かれたように好奇心を揺さぶられる感じがいい。 そもそも「疲れる」は「憑かれる」が語源だそうです。 「憑く」も「着く」も「付く」も「就く」も、みんな「ツキ」のファミリーだそうです。ツキがあるとかないかという「ツキ」。そして「ツキ」は「月」です。 月に憑かれてツキを自分の側に手繰り寄せたいじゃないですか。

  • 本はむずかしいくらいがいいのかも: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近ひそかに思ってること。それはってむずかしく感じるくらいのほうが読む自分にとっては価値があるのかもっていうことです。 むずかしさを感じるのは、それだけ読む自分の側に知らないこと、考えが及ばないことがあるということだと思います。単純に言葉を知らないとか、登場してくる人や物事について知らないとか、書かれていることの背景について知らないとか、いろいろありますよね。あるいは、著者の頭のなかにあるもの、文章として表現されている内容が複雑すぎたり、高度すぎたりして、いまの自分にはわからないというケースもあります。 わからないことに触れられること自体に価値があるでも、一度読んだだけではわからなくても、そのわからないことに触れられること自体に僕は価値があるんだと思うんですよね。何よりそ

  • デクステリティ 巧みさとその発達/ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルンシュタイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 運動の巧みさについて書かれた一般向け科学書。だいぶ前に読んだですけど、ひとつ前のエントリーでアフォーダンスのことを書いて、読んだことを思い出しました。 このの著者であるベルンシュタインはロシアの生理学者。このは1940年ごろ書かれたと推測されていますが、著者の死後20年経ってようやく遺稿が発見され、英語版が出版されたのは1996年だといいます。日語版である書は2003年の発行です。 書の目標として、著者はまえがきに次の2つを挙げています。 巧みさという複雑な心理物理的能力を、できるかぎり厳密かつ詳細に定義し、分析すること動作の協調や、運動スキルや練習などの性質について、現在までわかっている知見を一般読者に向けて簡潔に解説すること 巧みであるかは別にしても、人間が

  • パターン認識と予測: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 分類と階層構造化、あるいは関係性の把握。もうちょっと広げると状況の把握。そうした把握が自分のなかでしっくりきた際に「わかった!」となる。これ、言うまでもなく当たり前のこと。 ようするに、そうした自分でしっくりくる状況、パターンを把握すること。その自分でしっくりくるパターンを見える形にする視座がいわゆるフレーム。 当たり前だけど、パターンがなければ人間は考えることはおろか、普通に行動することもできません。床と壁のパターンの違いが認識できるから部屋の中を歩けるのだし、ドアの向こうをなんとなくであれ、予測できるからこそ、そのドアを開けるかどうかの判断も可能です。 パターン認識があっての私たち。そのために視座であるフレームを固定化する必要があるのもYes。問題ありません。 フレーム

  • 大事なことはわかることじゃない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今月はぜんぜんブログが書けてないですね。まぁ、この忙しさじゃ仕方ない面がありますけど。 そんな忙しさのなかでも最近思ったことをすこし。 自分の能力を高めるためには、を読んだり、誰かに聞いたりして、すぐにわかってしまうより、わからないことに自分でこだわってみることのほうが大切なことなんだなーと思います。 わからないことにこだわり、自分でいろいろ試して経験するなかですこしずつわかることが増えてくる。そういうわかり方を大切にしたいな、と。 わかった気にならないわかりやすい言葉を読んだり聞いたりして、わかった気になることって簡単です。でも、そういうのってあんまり役に立たない。役に立たないものをどんどんわかった気になって蓄積しても、それこそ役に立ちません。 それにわかった気になって