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ブックマーク / sakura.canvas.ne.jp (6)

  • Web評論誌「コーラ」7号 <倫理の現在形>第7回:吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?(永野 潤)

    藤子F不二雄(ふじこ・えふ・ふじお)のSF短編マンガは、繰り返し同じ世界を描いています。それは「人間」がマイノリティーとなる世界です。それは、いわゆる「ディストピアもの」と言ってもいいでしょう。たとえば、「絶滅の島」という作品(1985年)(注1)では、人類が絶滅の危機に瀕した地球が舞台です。地球は毛むくじゃらの巨大な「宇宙怪物」たちに突如攻撃され、圧倒的な軍事力の差に、地球人はほとんど殺戮されてしまったのです。生き残った主人公の少年は言います。「戦争なんてものじゃなかった 一方的に焼き尽くし、破壊しつくし、殺しつくし……。 人間をまるで雑草か何かのように……。」彼を含む27人は、「秘島ツアー」で孤島にやってきていたため殺戮をまぬがれ、生き残ったわずかな人間です。しかし、その人々も宇宙怪物に見つかってしまい、襲撃を受けます。人々は武器をもって抵抗しますが、次々に捕らえられ、残虐な仕方で殺さ

  • Web評論誌「コーラ」6号 <倫理の現在形>第6回

    海外では、数万人から場合によっては数十万人が参加する政治的なデモや大衆行動、そして暴動が結構あります。しかし日では、1000人が集まるデモさえ、そんなに多くはありません。 まず私は、「なぜ日の(左派の)社会運動は、こんなにも弱いのだろうか」という問題意識から、この文章を書いています。言い換えると、なぜ日の社会運動は社会的な信用を獲得できていないのか、ということです。 もちろんそれには様々な理由があるでしょうが、私がここで考えたいのは、「社会運動と権力」の問題です。それは、社会運動内部における多様性や、運動内部の多数派/少数派の関係のあり方の問題であり、社会運動がその外部に対して持っている影響力に対して責任を引き受ける必要性のことです。こういった問題を考えて取り組んでこなかったことが、日の社会運動の社会的信用の低さにつながっていると私は思うからです。

  • WEB評論誌「コーラ」5号/「新・映画館の日々」第5回「“それはヴァギナではない”」鈴木薫

    以下は、2002年12月22日、「セクシュアリティ研究会」と呼ぶ集まりで発表した際配付したレジュメに、もとになったノートを参照して加筆したものである。 この年8月の同研究会の初めての会合では、守如子さんが“レディースコミック”について発表している。レジュメを見ると、ポルノグラフィが一般的に女性にとっては受け入れ難いという前提の上で、その女性にさえ受け入れられるようなポルノグラフィとはどういうものかという話の運びになっていた。ポルノとエロチカの区別はきっぱり廃している ものの、そこから説き起こさないと納得されまいという配慮があったのだろう。たった六年前の話である。 見なれない顔(私や友人)を見て、守さんはポルノ反対のフェミニストが来たかと思ったという。 そのときの守さんの発表から触発されたものは、拙稿の2章(「ヘテロセクシュアル女性は男性表象の夢を見るか」)に跡を残している。 当時

  • Web評論誌「コーラ」5号 <倫理の現在形>第5回「グローバル化した「性取引」にまつわる「倫理」と実証研究:誰がなぜ「それ」を「悪い」と言うのか」,青山薫

    ■はじめに 意識して挑発的に言わせてもらえば、「性取引」に関する「倫理」の問答に私は苛立つ。 それはこの問いと答えが、日社会では青鞜社以来繰り返されてきた近代的人権概念で性差別を撃つ議論をなぞるに留まっているばかりでなく、いまだに言説上でのみ繰り返される傾向が強いからである。そして、この、当事者と彼女たちを取り巻く具体的な状況をさておく言説製造の傾向は、性取引については近年他で弱まってきていることに照らせば(注i)、 相対的に日語圏でとくに強いと思われるからである。このこと自体が、性労働にたずさわる人びとを日の言説製造界が、学術研究分野であれ社会運動分野であれ、とくに軽視している、あるいは観察対象(ときに救済対象)としてしか扱っていない現状を表わし続けていると思われるからである。性産業における労働者も雇用者も客もふくむいわゆる「現場」の人びとの生活実践と乖離したまま、学究的、政治

  • WEB評論誌「コーラ」4号/「新・映画館の日々」第4回:私たちは「表象の横奪」論をほってはおかない

    やおい/BLは、主にレズビアン/ゲイ・スタディーズの分野から批判的に評価されてきた。ゲイにファンタジーを押しつける、ゲイを「一角獣のような幻の存在」として描いており「不愉快」である、男性同性愛者の性を商品化した差別表現であるなどと批判されてきた。これらをまとめて表象の横奪(the appropriation of representation)の問題と呼んでおく。 (石田仁「ほっといてくださいという表明」 『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ)> 1 それは〈私たち〉にとって何であるか 稿の表題はエピグラフとして引いた石田論文への応答というよりは軽くガンつける挨拶するくらいのつもりでテキトーにでっち上げられたものだが、ここでいう〈私たち〉とは、論文に慣用的に使われて嫌う人もいる(私はけっこう好き)一人称複数ではなく、具体的な二者を指している。むろん、読む人は

  • エスペラントの本、「さようなら、クロコディリード」の紹介

    gnarly
    gnarly 2008/04/17
    "エスペランティストの会合などで、エスペラントでなく母語で話すことを「ワニ語で話す」という。この「クロコディーロ(ワニ)」の由来に、二つの見解がある。"
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