タグ

ブックマーク / www.tapthepop.net (28)

  • 中村八大による” 変な歌 ”「じんじろげ」は、まるで意味不明の歌詞にも関わらず大ヒット!|Extra便|TAP the POP

    俳優の火野正平がNHK-BSプレミアムでオンエアされている番組、「自転車こころ旅」で岐阜県恵那市にある大井ダムに行ったときのこと。 木曽川をせき止めた水で水力発電を起こす大井ダムは高さ53メートル、高所恐怖症の火野はダムの上を恐る恐る自転車を引いて進んでいたが、恐怖心を打ち消そうとしたのか急に歌を唄い出した。 日における”変な歌”のなかでも、意味不明な歌詞としては筆頭格の「じんじろげ」だった。 ちんちくりんのつんつるてん まっかっかのおさんどん お宮に願かけた 内緒にしとこう ジンジロゲーヤ ジンジロゲ ドーレドンガラガッタ ホーレツラッパノツーレツ マージョリン マージンガラチョイチョイ ヒッカリコマタキ ワーイワイ ヒラミヤパミヤア チョイナダディーヤ ヒラミヤパミヤア チョイナダディーヤ チョイナダディーヤ チョイナダディーヤ 「ちんちくりんのつんつるてん まっかっかのおさんどん 

    中村八大による” 変な歌 ”「じんじろげ」は、まるで意味不明の歌詞にも関わらず大ヒット!|Extra便|TAP the POP
  • 大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成

    1985年の6月15日、旧国立競技場で開催された『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』。 日もすっかり暮れた頃、西日の差し込むステージに登場したのは大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松隆の4人によって、12年ぶりの再結成を果たしたバンド、はっぴいえんどだった。 オールナイトニッポンのドラマ『俺たちがはっぴいえんどだ』では、再結成に至る経緯が語られているが、簡潔にまとめれば次のようになる。 「All Together Now」のチーフ・プロデューサーを務めていたニッポン放送の亀渕昭信は、出演してくれるミュージシャンを集めようと奔走していた。 そしてイベントを成功させるために、是非とも大瀧詠一に出演してほしいと考えて、福生にある大瀧の自宅を訪ねた。 ところが「当分ライブはやりたくないんだ」と、あっさり断られてしまった。 その日の夜、大瀧が自宅スタジオを掃除していて見つけたのは、はっぴ

    大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成
  • 追悼・青山ミチ~「亜麻色の髪の乙女」としてよみがえった「風吹く丘で」

    2017年2月8日の朝、音楽評論家で作詞家でもある湯川れい子さんが、自身のツイッターでこうつぶやいた。 今から青山葬儀場で、石坂敬一さんのお別れ会です。そこに今朝のYahooで、「涙の太陽」を歌った青山ミチさんが亡くなったと言うニュースが入って来ました。エミー・ジャクソンが英語で歌った曲を、日語で歌いたいと言うことで、私が英語で書いた曲の日語詞を作るきっかけとなった方でした。 1949年2月に生まれた青山ミチの父はアメリカ軍兵士、母は日人だった。 朝鮮戦争の終わった年に父はアメリカに帰国したが、日に残った母は娘のミチを自分の母の子として出生届を提出、母ひとり子一人で育てた。 青山ミチのデビューは1962年、まだ13歳のときだった。 彼女を見出したのは通称「おけいさん」、当時の日では珍しい女性ディレクターの藤原慶子である。 青山ミチをスカウトした「おけいさん」は、彼女のためにオリジ

    追悼・青山ミチ~「亜麻色の髪の乙女」としてよみがえった「風吹く丘で」
  • 濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ

    「ロックは英語で歌うべきか、日語で歌うべきか」という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、物のロックを目指したロック・コンサートが様々な会場で行われていた。 そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。 箱根・芦ノ湖畔にある成蹊大学所有の敷地に、特設ステージが組まれたこのイベントの目玉は、プログレッシブ・ロックの雄、初来日するピンク・フロイドであった。 邦題のネーミングのユニークさもあって、前年に出たアルバム『原子心母』が大ヒットしたピンク・フロイドが、日でどんなライブを見せてくれるのか、ロックファンの期待は大きかった。 しかもイベントの3週間前、7月17日には激しい雷雨によって伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの後楽園球場公演が

    濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ
  • 「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助|月刊キヨシ|TAP the POP

    オールマイティの才能 ステージに立ち、曲を作り、そして歌詞を書いた。 遊び心にとんだ明るい人柄からハマクラさんの愛称で親しまれ、ヒット・メイカーとして数々の伝説を残した浜口庫之助(1917~1990)は、来年生誕百年を迎える。 生まれは神戸。父親は貿易商だった。 著書によれば、洋館の家にはガス燈がともり、裏庭にはテニスコートがあった。両親はクリスチャンで、日曜日には教会に行き、姉のピアノで讃美歌を唄った。音楽好きでハイカラな一家に育ち、5歳にして譜面が読めた。 小学校2年の時に一家で上京。旧制一高を目指すが、受験に失敗、親に内緒で音楽の道に走る。 1936年、初めて就いた仕事は、新宿のダンスホールのバンド・ボーイ。煙草の使い走りもいとわなかった。 流行り始めていたラテンに影響を受け ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロクバーナ」を結成。マラカスを振りながら自らステージに立つ。 初舞台は、「N

    「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助|月刊キヨシ|TAP the POP
  • 「レッキング・クルー」①~モンキーズの音楽を支えていた腕利きのスタジオ・ミュージシャンたち

    その演奏は誰もが聴いて知っているのに、名前はほとんど知られてはいない。 そんな腕利きのスタジオ・ミュージシャンたちが、1960年代から70年代にかけてアメリカ西海岸のロスアンゼルスを中心に、目覚ましい活躍をしていた。 プロデューサーのフィル・スペクターは1961年にフィレス・レコードを立ち上げたとき、自分の頭の中に鳴っている音を実現するために、優秀なアレンジャーとエンジニアを引き抜いて、若くて一流のプレイヤーたちを集めた。 フィル・スペクターのレコーディングでは、彼がイメージしている音とサウンドが一致するまで、同じフレーズを何度も何度も繰り返し演奏させて、OKテイクを録音していった。 譜面のとおり正確に演奏しても、フィルの現場ではOKにはならないのだ。 そもそもスコアはおおまかなものだったので、ミュージシャンたちは現場でアイディアを要求された。 それに応えられるセンスと実力を兼ね備えている

    「レッキング・クルー」①~モンキーズの音楽を支えていた腕利きのスタジオ・ミュージシャンたち
    gogatsu26
    gogatsu26 2016/10/30
    “「レッキング・クルー」①~モンキーズの音楽を支えていた腕利きのスタジオ・ミュージシャンたち”
  • 美空ひばりの「リンゴ追分」をSKAにして世界に広めたジャマイカのスカタライツ

    スカタライツ(SKATALITES)はレゲエを生んだ国、ジャマイカのジャズ・ミュージシャンによるスタジオのレコーディング集団として、1963年に活動を始めて1965年までの間に多くの録音を残した。 その中でも異色なのが「Ringo Oiwake」、通称「Ringo」の原曲は美空ひばりが1952年に発表した「リンゴ追分」である。 これが1960年代なかばからジャマイカの音楽シーンで継承されて、SKAのスタンダードとなっていったというのだから面白い。 「Ringo」にはイントロで馬の走り抜ける足音が聞こえて”Here Comes Ringo!”という叫び声から始まって、曲の中では銃声が何度も鳴り響くヴァージョンもある。 アメリカの西部劇映画史に輝く名作、ジョン・フォード監督の『駅馬者』に主演したジョン・ウェインの役柄、リンゴ・キッドの「Ringo」に由来しているそうだが、なんとも不思議なつなが

    美空ひばりの「リンゴ追分」をSKAにして世界に広めたジャマイカのスカタライツ
    gogatsu26
    gogatsu26 2016/07/09
    “江戸時代から女人禁制だった伝統ある劇場で、女性として初めて舞台に立った美空ひばりはこの時15歳、そして伝統ある劇場を埋め尽くしたのも、質素な服装をした若者たちが中心だった。 ”
  • 1973 ボウイ、シベリア鉄道の旅

    スターマンは空で待っている 僕らに会いたがっている でも、僕らが正気のままでいられるかと 心配してるのさ 1973年。 ミュージック・ライフ誌は表紙に山寛斎がデザインした衣装に身を包んだデヴィッド・ボウイの写真を載せ、「遂にやって来たスターマン デヴィッド・ボウイ日に上陸」というタイトルで特集を組んだ。 上陸、というミュージック・ライフ誌の表現は正しかった。 彼は飛行機で羽田空港に降り立ったのではなく、オロセイ号という豪華客船で横浜港の大桟橋に上陸したからだ。 スターマンという星から降ってきた男の苦手なものが飛行機だという話はどこか奇妙な感じがしたが、逆に、雨の横浜港に忽然と姿を現したボウイは、とてもミステリアスに映った。 そして雨に煙る中、赤と紺のチェックのジャケットに赤いスラックスのボウイは、モノクロームの画像の中、ひとり色が塗られた男のように見えた。 日公演を終えたボウイは、再

    1973 ボウイ、シベリア鉄道の旅