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ブックマーク / www.tapthepop.net (28)

  • 高倉健と都はるみが惚れ込んだという隠れた名曲「昭和放浪記」

    1972年に「昭和放浪記」を書いた阿久悠は、歌詞が出来上がったときにいい手応えがあったので、凡庸な演歌の作品で終わらないようにと、あえてポップス系の小林亜星に作曲を依頼した。 その後に隠れた名曲と呼ばれたことについて、阿久悠はこのように述べている。 これは演歌好きの人からは、隠れた名曲のように言われている。別に隠したつもりはなかったが、ただもう一つ売れなかっただけである。 それでも、詞ができた時も、曲がついた時も、レコーディングが終わった時も、なかなかの盛り上がりで、もしかしたら、伝説的な大ヒットとささやかれたのだが、結局は隠れた名曲どまりであった。 この「昭和放浪記」はねらいうちのように、水前寺清子のために書いた。 水前寺清子は1970年に放映されたテレビのホームドラマ『ありがとう』が高視聴率を取って、シリーズ化されたことから俳優としても人気を博していたが、歌手としてはヒット曲が途切れて

    高倉健と都はるみが惚れ込んだという隠れた名曲「昭和放浪記」
  • ボ・ディドリーを偲んで〜名立たるロックスター達がこぞって継承してきたビートの発明者|TAP the DAY|TAP the POP

    「俺はチャック・ベリーみたいに器用なことは出来ねえ!ガンガン鳴らすだけだ!」 2008年6月2日、ボ・ディドリー(享年79)が米国フロリダ州アーチャーの自宅で息を引き取った。 死因は心不全と発表された。 晩年も精力的にツアーをこなしていたが…2007年5月13日、公演先のアイオワ州カウンシルブラフスで脳卒中をおこして入院を余儀なくされる。 数週間で退院したものの、後遺症を改善するために日々リハビリに励んでいたという。 生前、彼が生み出した“ボ・ディドリー・ビート”と称される強力なリズムを基調とした独特のサウンドは、ブルースとロックンロールの掛け橋となり、エルヴィス・プレスリーやローリング・ストーンズ、バディ・ホリー、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、ブルース・スプリングスティーン、エアロスミス、U2など数多くの後進たちに多大な影響を与えたと言われている。 G

    ボ・ディドリーを偲んで〜名立たるロックスター達がこぞって継承してきたビートの発明者|TAP the DAY|TAP the POP
  • 初来日したカーペンターズが「第1回世界歌謡祭」で味わった屈辱

    1970年11月20日から日武道館で開催された第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年に世界歌謡祭に改称)は、日で初めて行なわれた国際的なポピュラー音楽祭である。 世界の38か国から選ばれた44アーティストが参加して、その日のために作られたオリジナル曲を披露するという試みだった。 司会は坂九と作家の藤義一、監修役の音楽プロデューサーとして名を連ねたのは石丸寛、いずみたく、中村八大、服部克久の4人。 この音楽祭の意義について、服部は事前の取材で「日のポピュラー曲を世界という鏡にうつして、その位置を知る貴重な機会」だと語っていた。 大きな円形舞台の中央には原信夫とシャープス・アンド・フラッツ、宮間利之とニューハードが揃っている。 日を代表するビッグバンドとオーケストラを作曲者が指揮し、歌手が歌って2日間の予選を行なった。 その合格者によって最終日に選が行われて、最優秀作にグランプリが与えら

    初来日したカーペンターズが「第1回世界歌謡祭」で味わった屈辱
  • 五番街のマリーへ〜700人の女性たちと乗り込んだ大型客船の中で生まれた!? 阿久悠の“無国籍ソング”

    この「五番街のマリーへ」は、ペドロ&カプリシャスの5枚目のシングルとして1973年10月25日に発売された。 彼らの前作「ジョニィへの伝言」と同様にロングヒットとなり、売上枚数は21.2万枚を記録している。 作曲を手掛けたのは、ピンクレディーのプロデューサーとしても知られる作曲家・都倉俊一。 そして作詞は、昭和を代表する作詞家・阿久悠である。 この歌には、作詞家・阿久悠の“新しい挑戦”があったという。 その試みは、同年の3月に作と同じ歌手・作家によって発表された「ジョニィへの伝言」から始まっていた。 阿久悠は著書『愛すべき名歌たち〜私的歌謡曲史〜』においてこんなことを綴っている。 高橋真梨子がリードボーカルとして加わる前のペドロ&カプリシャスには「別れの朝」というヒット曲があった。なかにし礼が作詞したいい作品で、これに負けられないと思い、何か新しさを感じさせたいと思って工夫をしました。そ

    五番街のマリーへ〜700人の女性たちと乗り込んだ大型客船の中で生まれた!? 阿久悠の“無国籍ソング”
  • 1964年に来日して衝撃を与えた、リヴァプール・ビートルズ

    1964年9月16日、ブルージーンズの加瀬邦彦は最初の音を聴いただけで、「な、なんだ!! この音は? このサウンドは?」と、後楽園アイスパレスのプラスチックの椅子からひっくり返ってしまったという。 今回の衝撃は最大級だった。今までに聞いたことのないサウンド、音の厚さ。 二人とも身を乗り出して、目と耳を全開にして聞き入った。まさに黒船の到來だ。 そのバンドの名前はリヴァプール・ビートルズ、16日から27日まで開催された「世界・サーフィン・パレード」というショーのリハーサル時の出来事だ。 最新流行の音楽、サーフィンをタイトルに付けたこの催しには、イギリスからリヴァプール・ビートルズ、西ドイツからスザンヌ・ドンシェット、モーリン・ルネ、スウェーデンからインゲラ・ブランデルというロックンロール・バンドが来日した。 日側の出演者は寺内タケシとブルージーンズ、ジャニーズ、クールキャッツ、東京ビートル

    1964年に来日して衝撃を与えた、リヴァプール・ビートルズ
  • 浜口庫之助がジャズ・シンガーの後輩だった植木等に書いた「花と小父さん」

    1960年代なかばに流行し始めたフォークソング調の歌謡曲「涙くんさよなら」や「バラが咲いた」を作ったのは、かつてはジャズ・シンガーとして人気があった浜口庫之助である。 浜口は1958年に作曲家に転向した翌年に「黄色いさくらんぼ」が大ヒットし、そこからは日音楽史に残る名曲を数多く世に出している。 ある日、朝起きて気分が良くて庭を眺めていると、緑の中に赤いバラが一輪だけ、ふわっと咲いてるのが見えた。 「あっ、バラが咲いたな」と思って、そばにあったギターで「バーラが咲いた」と口ずさむと、そのまま歌になってしまったという。 大学生だったマイク真木が歌って大ヒットした「バラが咲いた」は、1966年の日レコード大賞作曲賞に選ばれた。 その翌年、ジャズ・シンガーの後輩にあたる植木等の楽曲を頼まれたとき、浜口は「笑えピエロ」と「花と小父さん」を提供している。 1961年に大ヒットした「スーダラ節」以

    浜口庫之助がジャズ・シンガーの後輩だった植木等に書いた「花と小父さん」
  • スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)

    あなたにとって最強の3人組は? 4人組や5人組のイメージが強いロックバンドの世界。だが歴史を振り返る時、忘れてはならないのが3人組。今回は1960〜ゼロ年代に活躍したスリーピースバンドに絞って、思いつくままにラインナップしてみた。まずは前編10組を。 ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス 衝撃度という意味ではダントツか。バンド名の通り、どの映像もジミヘンが目立ってしまうが、ノエルやミッチのプレイも凄い。 Jimi Hendrix Noel Redding Mitch Mitchell クリーム ジミヘンと同時期に結成されたスーパーグループの草分け。こちらにはクラプトン。 Ginger Baker Jack Bruce Eric Clapton

    スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)
  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
    gogatsu26
    gogatsu26 2019/05/02
    “モップスがメインでさ、RCと陽水が前座”
  • 日本人が好きな洋楽①「悲しき願い」~アニマルズから尾藤イサオ、そしてサンタ・エスメラルダ

    で「悲しき願い」がリバイバル・ヒットしたのは、1978年の春から夏にかけてのことである。 当時はディスコ・ブームの真っ盛りで、東京の新宿や渋谷、六木、池袋、大阪の梅田や心斎橋など、都市の繁華街には次々にディスコが開業して人気を博していた。 そして7月にはジョン・トラボルタ主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が公開されて、ますますブームが過熱していくことになるのだが、その直前に大ヒットしていたのがサンタ・エスメラルダの「悲しき願い」だった。 「悲しき願い」はアニマルズのシングル盤が1965年に、全米チャートで15位まで上がったヒット曲である。 そしてサンタ・エスメラルダのヴァージョンもまた、アメリカでは1978年2月18日に最高15位でアニマルズと同じ順位だった。 サンタ・エスメラルダはヨーロッパとアメリカのミュージシャンやソングライターによってつくられたグループだ。 世界的文豪

    日本人が好きな洋楽①「悲しき願い」~アニマルズから尾藤イサオ、そしてサンタ・エスメラルダ
  • ウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス〜カントリーのアウトローたち

    カントリー・ミュージックのアウトローたちの系譜 1960年代のカントリー界は、商業的成功を第一に掲げたクセのない甘くポップなサウンドが主流となっていた。テネシー州ナッシュビルがすべてをコントロールしていたが、対抗する動きも少なからずあった。 ジョニー・キャッシュはレコード会社の反対を押し切って刑務所での荒々しいライブ録音盤を制作し、刑務所上がりのマール・ハガードはカリフォルニア州ベイカーズフィールドでホンキー・トンク・カントリーを復権。そしてグラム・パーソンズやクリス・クリストファーソンがロックにカントリーの良心を“出逢わせて”いた。 そんな流れが一つになる時がやってきた。ヒッピー運動やベトナム戦争の挫折を経たアメリカ建国200年を背景に、「レッドネック・ロック」「アウトロー・カントリー」と呼ばれるシーンが1970年代半ばに確立。全米規模でムーヴメントを起こすことになる。ナッシュビルの保守

    ウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス〜カントリーのアウトローたち
    gogatsu26
    gogatsu26 2018/11/29
    “刑務所上がりで有名なのはマール・ハガードやデビッド・アラン・コー”
  • 吉田拓郎27歳〜突然降りかかった虚言による逮捕スキャンダルと、心ないマスコミのバッシングに堪えた日々

    Home TAP the STORY 吉田拓郎27歳〜突然降りかかった虚言による逮捕スキャンダルと、心ないマスコミのバッシングに堪えた日々 - TAP the POP 60年代後半から70年代と言えば…燻りつづける学園紛争の熱と共に、若者たちの間ではベトナム反戦、安保反対の嵐が吹き荒れていた。 そんな時代を背景に、若者たちが“フォークの神様”と崇めたのは岡林信康だった。 当時、“反体制の英雄”として祭り上げられた岡林を、新聞は芸能欄ではなく社会面で取り上げていたという。 岡林を中心とする関西フォーク勢は、演歌や歌謡曲にはない思想性を持つようになる。 こうして一気に隆盛していったフォークミュージック界における“次の英雄”として登場したのが吉田拓郎だった。 若者たちに絶大な支持を得ていたフォークという音楽ジャンルを、より幅広い層に浸透させた拓郎の功績は大きい。 歌手、作詞家、作曲家、編曲家、音

    吉田拓郎27歳〜突然降りかかった虚言による逮捕スキャンダルと、心ないマスコミのバッシングに堪えた日々
  • 恋しくて〜80年代の青春を魅了した“ジョン・ヒューズ学園映画”のラスト作

    『恋しくて』(Some Kind of Wonderful/1987) 1980年代の映画を語ろうとする時、ある時期の“学園映画”を見落としてはならないこと。そしてその頂点に君臨していたのが「ジョン・ヒューズの学園映画6」であったことは、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』でも語った通り。 あれから30年以上が経ち、これまでもたくさんの学園映画が製作されてきた。だが「あの頃のヒューズ作品を超えた」という話を一度も聞いたことがない。それほど彼の映画には観る者を魅了する一貫したムードと世界観が息づいていた。そんなヒューズも1987年を最後に学園映画を撮らなくなり、2009年8月6日に59歳で亡くなった。 雑誌編集に携わりながらコメディ映画の脚家でもあったジョン・ヒューズが、初監督を担当した『すてきな片想い』(Sixteen Candles)でデビューしたのが1984年。16歳の女の子

    恋しくて〜80年代の青春を魅了した“ジョン・ヒューズ学園映画”のラスト作
  • 追悼・寺尾次郎(1)~音楽から映画へ道に進み、字幕翻訳家になったシュガー・ベイブのベーシスト

    Home Extra便 追悼・寺尾次郎(1)~音楽から映画へ道に進み、字幕翻訳家になったシュガー・ベイブのベーシスト - TAP the POP 小学生の頃から映画が好きだった寺尾次郎は、よく叔母さんに東宝の怪獣映画と青春ものと外国映画の3立てに連れて行ってもらったそうだ。 音楽活動を始めていた大学時代はベーシストだったが、1975年3月から山下達郎が率いるシュガーベイブに参加し、翌年4月1日の解散ライブまでメンバーとして活躍した。 ただしメンバーに加入したときは、デビュー・アルバム『SONGS』(4月25日発売)が完成した直後だったので、日音楽史に残るその記念碑的なアルバムで演奏していたわけではない。 シュガーベイブはアルバムを完成させるとほぼ同時に、バンドとしてのライブ活動を強化するために、山下達郎と大貫妙子、村松邦男というフロントの3人と、ドラムが上原裕(ユカリ)、ギターが伊藤

    追悼・寺尾次郎(1)~音楽から映画へ道に進み、字幕翻訳家になったシュガー・ベイブのベーシスト
  • 「25 or 6 to 4(長い夜)」-その時、ロバート・ラムがいた場所は?

    Home TAP the ROOTS 「25 or 6 to 4(長い夜)」-その時、ロバート・ラムがいた場所は? - TAP the POP ♪ 夜明けを待ちながら 言うべき言葉を探す 閃光が空に反射するのを見て 俺は諦め、目を閉じる ♪ シカゴの初期の大ヒット曲であり、つねにコンサートのフィナーレを飾った「長い夜」はそんな歌詞で始まる。そして歌詞はこう続く。 ♪ 胡坐を組んで床に座る 4時まであと25、6分だ ♪ 「長い夜」の原題は「25 or 6 to 4」という。 曲が発表された1970年といえば、ドラッグカルチャー全盛である。当然のことながら、このタイトルも様々な憶測を呼んだ。 ドラッグの調合の割合のことだ、と言った者がいる。LSDのスラングだ、と言った者もいる。夕方の6時にLSDを服用すれば、明け方の4時まで10時間、ドラッグの効果が続くというのがその説明だった。 曲を書いたロ

    「25 or 6 to 4(長い夜)」-その時、ロバート・ラムがいた場所は?
    gogatsu26
    gogatsu26 2018/03/15
    “街中にネオン・サインが煌いていたから、閃光が、という歌詞を書いた。そして僕が時計を見た時、ちょうど4時25、6分前だったというわけさ” “結局、そのプロセスそのものが歌詞になった、というわけである…”
  • 追悼・江藤勲 日本で最強のベーシストが残したスタンダード・ソングの数々

    1960年代から70年代にかけて訪れた歌謡曲の黄金時代にあって、スタジオ・ミュージシャンとして活躍したベーシスト、江藤勲が4月25日に虚血性心不全で亡くなった。 残念ながら報じられたニュースは、どれもそっけないものだった。 60年代に活躍したグループサウンズで、「ブルー・シャトウ」などのヒット曲で知られる「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の初期メンバー。ベースを担当していた。(朝日新聞「おくやみ欄」) だがベーシストとして生涯現役を貫き、渡辺貞夫、宮間利之とニュー・ハード、橋幸夫、加山雄三、布施明、堺正章、井上順、荒木一郎、美空ひばり、ザ・ピーナッツ、伊東ゆかり、奥村チヨ、黛ジュン、和田アキ子、小川知子、ヒデとロザンナ、フォーリーブス、高田渡、小室等、小椋佳、ビリー・バンバン、かぐや姫、ガロ、カルメン・マキ、森山良子、赤い鳥、りりィ、タケカワユキヒデ、タモリ、アニメ『ルパン三世』ジャズ、

    追悼・江藤勲 日本で最強のベーシストが残したスタンダード・ソングの数々
    gogatsu26
    gogatsu26 2018/03/10
    “「いつかはセンターで演奏したい!」と願う仲間は数多かった。 しかし、私は違った。 数多くのレコーディングに立会い、スタジオ・ミュージシャンとして、さまざまな楽曲に関わるほどに、〝サイドマン〟の奥の…”
  • 「マンチェスターとリヴァプール」~人々は希望と不安を抱えて生きている 、幸せを目指して~

    Home Extra便 「マンチェスターとリヴァプール」~人々は希望と不安を抱えて生きている 、幸せを目指して~ - TAP the POP アラン・ドロンの出世作となったフランス映画『太陽がいっぱい』(1960年)で、ヒロインとしてデビューしたマリー・ラフォレはその美貌で女優として活躍するが、もともとは歌手志望であったことから次第に活動の主軸を音楽へと移していった。 1966年に発表してヒットした「マンチェスターとリヴァプール」は、イギリスの工業都市と港湾都市を舞台にした失恋の歌。 マンチェスターとリヴァプールというふたつの都市をさまよい歩いても、かつて「愛している」と言ってくれた恋人の声はよみがえるが、失われた美しい恋はもうみつからないという内容だった。 マンチェスターは雨の中 リヴァプールはもう見つからない 今日の霧の中で 恋も失われてしまった 「雨」や「霧」はイギリスの象徴なので、

    「マンチェスターとリヴァプール」~人々は希望と不安を抱えて生きている 、幸せを目指して~
    gogatsu26
    gogatsu26 2018/02/26
    “作曲したアンドレ・ポップは1967年にヴィッキーが歌った「恋はみずいろ」を提供し、ユーロビジョン・ソング・コンテストでは入賞に終わったが、翌年にインストゥルメンタルのカヴァーが大ヒットする”
  • 青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」

    青山ミチという歌手がいた。 アメリカの影を背負った生まれで、才能はあったが不器用で、行動が危なっかしい少女歌手だった。 わずか13歳で和製ポップスでデビューしたがヒットに恵まれず、「ミッチー音頭」などで注目されたが、いつしか暗い方向へと流されていった。 そんななかで唯一、賛美歌のような「叱らないで」が1968年に少しだけヒットした。 ● 歌手になるために北海道から家族で上京してきた17歳の少女(後の藤圭子)と出会って以来、作詞家の石坂まさおは何とかしてレコード・デビューを実現させようと、マネージャーになった。 ある日、「新歌謡界」という作詞家の同人誌仲間から未発表の詞を見せられて、頭のなかで何かがひらめいた。 石坂の頭のなかで”バカだな バカだな だまされちゃって”というフレーズに、何かがつながった。 そのとき口をついて出てきたのが、青山ミチの「叱らないで」のメロディだった。 伏線はあった

    青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」
    gogatsu26
    gogatsu26 2018/02/03
    “叱らないで 叱らないで マリア様”
  • 漣健児の偉業〜日本語ポップスの源流を作った男、その訳詞スタイルとは!?

    1960年代、当時のアメリカンポップスをリアルタイムで400曲以上も日語化した男がいた。 彼の名は漣健児。 日のニューミュージック界を牽引してきたミュージシャンの一人、山下達郎が彼についてある取材で語った言葉が実に的を射ている。 「洋楽のメロディーに日語の詞を乗せるという、我々が今も変わらずやっていることは、漣健児と岩谷時子、このお二方が書かれた詞の中で、ほとんどすべてが完結していたといっても過言じゃないんですよ。」 「例えばロックンロールなら漣さん、シャンソンだったら岩谷さん、といった感じで、ほとんどお二人の独壇場でしょう。その後のロックやフォークにまで至る、僕たちの言語感覚は、当時のカヴァー・ポップスの中から生まれたんだと思います。」 60年初頭。自宅にレコード、もしくはオープンリールのテープを持ち帰ると、掘り炬燵のある四畳半の部屋にこもるのが漣健児の日課だった。 テープレコーダ

    漣健児の偉業〜日本語ポップスの源流を作った男、その訳詞スタイルとは!?
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    gogatsu26 2018/01/27
    “山下達郎が彼についてある取材で語った言葉が実に的を射ている。 「洋楽のメロディーに日本語の詞を乗せるという、我々が今も変わらずやっていることは、漣健児と岩谷時子、このお二方が書かれた詞の中で…”
  • モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作

    『モ’・ベター・ブルース』(Mo’ Better Blues/1990) 2017年に大ヒットした映画『ラ・ラ・ランド』に印象的なシーンがあった。主人公の男性ジャズ・ピアニストが恋人に「ジャズは滅びかけている音楽」と悲しい表情を浮かべながら言うところ。 実際に2017年度上半期、アメリカでの音楽ジャンル別売り上げシェアを見てみると、R&B/ヒップホップ25.1%、ロック23%、ポップ13/4%、カントリー8%、ラテン5.7%、エレクトロ/ダンス4%、クリスチャン/ゴスペル2.5%、キッズ1.4%、そしてジャズはクラシックと並んで1%となっていた。 20世紀初頭にニューオーリンズで誕生したジャズは、1910年代にはリバーボートによってアメリカ各地に広がっていく。シカゴ、カンサスシティ、ニューヨークなどだ。ルイ・アームストロングをはじめ、ハーレムのコットン・クラブに出演したデューク・エリントン

    モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作
  • 久保田早紀の「異邦人」を見事なアレンジで大ヒット曲に仕上げた編曲家とプロデューサーの力技

    1979年10月に発売された無名の新人シンガー・ソングライター、久保田早紀のデビュー曲「異邦人」が誕生した陰にはすぐれた編曲家、萩田光雄によるプロの仕事があり、そこにはプロデュ-サーの力技が大きく関わっていた。 当時からこの作品のアレンジに対する評価は、同じプロの編曲家の間でも高いものだった。 最近もアレンジャーの森俊之が自身のツイッターで、こんな感嘆をつぶやいていた。 久保田早紀さんの異邦人の弦アレンジがあまりに素晴らしくて、やられっぱなし。原曲の編曲は萩田光雄先生。最も尊敬する日の編曲家のお一人。何という印象的で耳の残るイントロ。そして必要不可欠な音だけで構成されたミニマリスティックなアレンジ。あの時代の歌謡曲は当に素晴らしい。 — 森 俊之 (@Toshiyuki_Mori) May 13, 2013 「異邦人」はシルクロードの映像を使った三洋電機のカラーテレビのコマーシャル・ソ

    久保田早紀の「異邦人」を見事なアレンジで大ヒット曲に仕上げた編曲家とプロデューサーの力技