タグ

沖縄に関するgohshiのブックマーク (7)

  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

    古文書からみた日琉関係 - 我が九条
  • 普天間移設と沖縄の気持ちについてantonianさんのお話し

    あんとに庵 @antonianjp 闇の金融、ロンダリング天国国とか。。。。しかし軍事戦略的にうまみありすぎる土地だからほっとかれない不幸。 2010-04-23 01:27:35 暁 @akatuki_a だれが悪いというわけでもないと思うのだけど、うー RT @antonianjp 闇の金融、ロンダリング天国国とか。。。。しかし軍事戦略的にうまみありすぎる土地だからほっとかれない不幸。 2010-04-23 23:37:11

    普天間移設と沖縄の気持ちについてantonianさんのお話し
  • お風呂と琉球 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    人は風呂好きだとよく言われます。たしかに寒い季節にザブリと湯船に入って温まるのは気持ちのいいものですね。日人の風呂好きは今に始まったことではありません。例えば面白いところでは、500年前の朝鮮の釜山には日人の居留地(富山浦)があったのですが、この付近にあった東萊(トンネ)温泉に日人たちがワンサカと出かけていき、彼らを運ぶため地元民と馬が始終かり出されて大変迷惑をしている、との記録があります。 一方、沖縄ではどうでしょうか。現在の沖縄には湯船がなく、シャワーだけ取り付けられている住宅がけっこうあります。亜熱帯地域の沖縄では熱いお湯につかる習慣はあまりなく、「湯船につかるよりシャワー」が沖縄の入浴の基でしょう。気候条件にくわえてアメリカ統治時代の影響もあると思いますが、意外にも戦後の沖縄には数多くの銭湯があったようです(現在ではほとんど廃業して残っていません。こちら参照)。 王国時

    お風呂と琉球 - 目からウロコの琉球・沖縄史
  • 将軍と皇帝に会った琉球人 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。 このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。 1752年、国王尚穆(しょ

    将軍と皇帝に会った琉球人 - 目からウロコの琉球・沖縄史
  • 「中国化」する琉球 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    琉球というと中国の影響が強くあって、昔は中国風の文化だったのが、近世(江戸時代)に薩摩藩に征服されてから次第にヤマト(日)化していったと考える方も多いと思います。しかし、事実は全く逆。琉球は薩摩に征服された後に「中国化」していくのです。 もちろん琉球は中国(明・清)の朝貢国だったので、中国の影響が全く無かったわけではありません。しかし近世の琉球は中国文化をとくに積極的に取り入れていきます。 例えば首里城で行われる儀式。近世以前の王府儀礼は中国の拝礼様式を参考にしつつも、何とヤマトの陰陽道の方式が取り入れられていました。王府の重要な儀礼のひとつである元日の天を拝む儀礼では、年ごとに縁起のいい方角に向かって王や官人が拝んでいましたが、これは「歳徳神(恵方)」の信仰にもとづくものです。この信仰は節分にべる恵方巻き(まるかぶり)を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。 しかし、この恵

    「中国化」する琉球 - 目からウロコの琉球・沖縄史
  • 琉球はどんな文字を使ってた? - 目からウロコの琉球・沖縄史

    独立国だった時代(古琉球)の琉球王国は、文書にどのような様式のものを使っていたのでしょうか。おそらく多くの人は、琉球王国が中国・明朝の朝貢国であったことから、中国風の漢文を使っていたのではないかと考えていると思います。しかし、国内の文書に漢文はほとんど使われていません。では琉球独自の文字があった?いいえ。実は、琉球国内で広く一般的に使われていたのは日の「ひらがな」でした。 国王から家臣に出された任命(辞令)書【写真。クリックで拡大】は全て「ひらがな」の草書体で書かれ、中世日で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じです。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことです。 もちろん琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文が使われています。しかし、これは琉球自身が漢文で書くことを選んだのではなくて、当時明朝に外交の使者を送るには、明朝

    琉球はどんな文字を使ってた? - 目からウロコの琉球・沖縄史
  • :デイリーポータルZ:ザ、旧盆

    沖縄で行事と言えば盆だ。クリスマスよりも正月よりも、まず盆だ。他県では盆休み、ということで家でのんびりすごしたりするだろう。だけど沖縄の盆は違う。休んでなんかいられない、家族総出で行われる一年で最大の行事なのだ。 沖縄に来て三度目の旧盆を迎え、ようやくその内容がわかってきたのでお伝えしたいと思います。 (安藤 昌教) 旧暦です まず沖縄では旧暦にのっとって行事が行われることが多い。最近では正月こそ他県と同じく新暦の1月1日に祝うことが多いが、それでも沖縄南部をはじめ一部の地域ではいまでも旧暦で正月を祝っている。 しかし盆はといえば県内どこでも完全に旧盆だ。旧暦の7月13日から15日。今年は新暦でいうところの8月6日から8日の期間。旧暦の盆は新暦にのせると毎年ずれるので、たまに新暦の9月に入ってしまうこともある。 旧暦の話を一つ付け加えると、今年は旧暦では閏月というのがある。月の満ち欠けを基

  • 1