前回わたしは、個別的な個人ではなく、顔のない属性としての「おばさん」――ここでの定義は、生産労働という自分の責任所属フィールドを持たず、ご町内とか親類内とか狭い世間の中での身内の噂ばかりに興じている人で、もっぱら専業主婦、という意味――を一方的に嫌悪的に書いた。 しかし、そういった「おばさん」も、たとえば山田さんちのお母さんとか、鈴木さんのちの奥さんとか、そういう個々別の顔でみたときは、ぜんぜん悪い人間ではなかったりする。 そんなことはわかっているのである。 しかしそれが、山田さんちのお母さんとか、鈴木さんのちの奥さんとかいう個々別の顔ではなく、集団属性としての「おばさん」として、二人以上集まると(四人以上になるともう手に負えない)、感情的好悪で、その場にいない身内の人の噂話で盛り上がって止まらず、その価値観でこっちが裁断されてしまうから手に負えないのだ。 しかし、人間を個別に見ず、たとえ
最近には珍しく、今期は毎週楽しみに観るドラマが2つもあった。 既に何度かここでも触れている『銭ゲバ』と、山田太一最後の連ドラと言われている『ありふれた奇跡』。 『銭ゲバ』が終盤に入って急に失速している一方で、序盤、展開らしい展開がほとんどなくてちょっと退屈していた『ありふれた奇跡』の方は尻上がりに面白くなってきた。 まず『銭ゲバ』。これは意見が分かれるところだと思うが、僕はミムラ演じる緑を引っ張りすぎてると思う。 微温的な環境と資質に恵まれて生きてきた「持てる者」であるせいで、自己肯定的(であることを意識するまでもない)な性善説によって、自分の理解をはみ出したものを無自覚に切り捨ててしまっている緑は、脚本の岡田恵和さん自身の立ち位置の投影でもあり、また現代の若い善意の視聴者一般の視点を仮託されてもいるのだろう。ドラマ版の『銭ゲバ』は、彼女にとって埒外の不幸や情念を銭ゲバから叩きつけられた緑
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