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ブックマーク / blog.tatsuru.com (6)

  • 祇園祭の京都は暑いです - 内田樹の研究室

    IT秘書の薦めで携帯を機種変更して、HT-03Aを購入(発売後2日目)。 「Google携帯」である。 これで G-mail ができて、Google Calendar ができて、Google 検索ができる。 ということは私のパソコン用途のうち原稿作成以外の仕事は携帯でできるということである。 少し前にVAIOのちっこいのを買って、FOMAを繋いで、会議や授業のときに持ち込んでいたが、会議中に原稿を書くのでなければ、携帯でもう用が足りる。 とりあえずこれでパソコンが家に4コ(VAIOが3つとMac Air)、大学に1コ(Dynabook)、そしてモバイル。 買いすぎだという人もいるが、テクノロジーの進化は早く、ガジェット好きの私は我慢ということができないのである(同じくガジェット好きのニシダ先生が会議のときにめざとく見つけて「あ、いいなあ」と言うであろう。ぐふ) 京都新聞の取材。 「リーダー

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    gomi-box 2009/07/16
    "政治的業績のほとんどない知事が総裁になりたいと言い出しても、政権与党が「まじめに検討」するくらいに「リーダーなんか誰でもいい」という了解は広くゆきわたっているのである。"
  • 草食な時代 - 内田樹の研究室

    四年生の専攻ゼミでは「草男子から平成雑メンズ」というお題でお話を伺う。 こういう世代論的分類法はどれほど信憑性があるのかしらないけれど、遠く「モボモガ」や「アプレゲエル」の時代から始まって「太陽族」「六木族」「みゆき族」など「族」時代を経て、「○金/○ビ」、「根暗」、「新人類」、など無数のバリエーションがある。 どれも世相をすぱりと切り取って、鮮やかである。 今回の「草系」というのはネーミングが卓越していたので、広く人口に膾炙した。 けれども、それも「もう古い」のだそうである。 一月ほど前にはじめて耳にした世代分類カテゴリーが「もう古い」と言われては、おじさんの立つ瀬がありません。 きみたちの好きにしたまえ。 ただ、高度成長期、バブル期など「お金がだぶついているとき」は肉系の生き方が有利であり、低成長・不況・雇用不安期には草系の生き方が有利であるという大きな流れはあると思ってい

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    gomi-box 2009/04/29
    内田氏の草食感。女性誌とかでみかけるのとはちょっとちがう
  • 厭味なインタビュイー - 内田樹の研究室

    取材が続く。 火曜日が講談社の Grazia、水曜がリクルートの受験雑誌、木曜が朝日新聞。 取材のお題はそれぞれ「30代女性の生き方」「親は受験生をどう育てるべきか」「モンスター・ペアレンツ」 まことにさまざまである。 どのメディアに対しても基的には同じことをお答えする。 「そういうことはあまり問題にしないほうがいいですよ」である。 これらの問いはいずれも「人間の生き方」「育児戦略」「公民としてのあり方」については「あるべきかたち」が存在し、「あるべきかたち」ではないことがさまざまな不幸を生み出しているという論理形式を前提している。 このような信憑を刷り込まれることで一部の人間は向上心を掻き立てられるが、ほとんどの人(「向上心はなくはないが、行動が伴わない」タイプの人たち)はあまり幸福にはならない。 そういう人たちの前に「成功事例」をニンジンのようにぶら下げてもあまり「いいこと」はない。

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    gomi-box 2009/01/18
    内田さんのことをすごいなあと思うところは偉くなっても全然迎合しないところ。こんなおとなになりたい
  • ひとりマス・メディア - 内田樹の研究室

    気がついたらアクセス数累計が1400万を超えていた。 東京都の人口を超えたわけである。 わお。 すごいね。 個人のブログで、それもどちらかというと身辺雑記のほかには小うるさい理屈をがみがみと書き連ねているだけのサイトに、これだけの累積訪問者があるということをすなおに慶賀したいと思う。 先日、ある雑誌のインタビューがあり、プロフィールのゲラを見たら、「アクセス数が100万を超える人気ブログ」という紹介がされていた。 「あの〜、1300万を超える」ですけど・・・と訂正を求めたら、ずいぶん恐縮されていた。 カウンターの数字を一桁読み間違えていたのである。 さて、このようなかたちで発信していることが、世論形成上どれほどの影響力を持ちうるのであろうか。 とりあえずわかるのは、それは発行部数1300万部の「」のそれとはまったく異質なものだということである。 1300万部のの読者は通常その数より多い

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    gomi-box 2008/06/13
    「マスメディア」の「マス」性を存立させるのは、「私の内部にある、あれこれの意見を擦り合わせる」というめんどうな仕事を引き受けるということである。
  • ゲームと知性 - 内田樹の研究室

    というわけで昨日は KY 症候群についての同時代の賢者たちの知見をご紹介したわけだけれど、読むにつけ、これはなかなか哲学的な拡がりをもった主題であるということが私にもわかってきた。 鈴木晶先生が書かれている中で私がいちばん興味深かったのは次の箇所である。 どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。 この種のゲームは無数に存在する。 けれどもこのようなゲームが好まれる集団には共通性がある。 一定期間メンバーが固定されており、そのメンバーたちに斉一的なふるまいが強要されるような集団だということである。 例えば学校。 学校はメンバーが固定されており、ふるまいに斉一性がある。 そのせいで、学校の生徒たちは自分たちの集団に「外部」があるということをふだんは意

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    gomi-box 2008/01/13
    自分の価値観の肯定しているのは自分自身以外にいない、ということ
  • 情報と情報化 - 内田樹の研究室

    「メディアと知」というタイトルの授業をしている。 メディア・コミュニケーション副専攻の学生15名対象の半期科目で、私の後の半年は江弘毅さん、そのあとの半年は関川夏央さんと続く。 一年半にわたってこんなに濃いメンバーにさらされたら、学生たちはどうなってしまうのであろうか。想像するのがコワイ(そればかりか、学生たちのうちの何人かは四月から内田ゼミである。彼女たちの繊細な知性はこのシュトルム・ウント・ドラングに耐えられるであろうか)。 先回のお題は「メディアと身体」。 同一タイトルで三人の学生に10分ずつのプレゼンテーションをしてもらう。 これが意外に面白かった。 それは同一テーマについて短いプレゼンをするだけであるにもかかわらず、「抵抗」が働く箇所が三人に共通していたからである。 「抵抗」というのはそこに「直視したくない/直視してはならない何かがある」ということである。 人はみな何かから目を背

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    gomi-box 2008/01/13
    『「情報化」プロセスからは「間髪を容れずに」目をそらすべきことを刷り込まれていた』なるほど、と思う。
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