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  • むつひろしと浅川マキのソングライティングによる「ちっちゃな時から」

    2015年にオネストジョンというイギリスのレーベルから、アルバム『MAKI ASAKAWA』が発売になった。 この浅川マキのUK盤を企画して発売にこぎつけたのは、ロンドン大学の教授でもあるアラン・カミングス。 彼が書いた詳細なライナーノーツにはこんな紹介が出てくる。 「彼女はカウンター・カルチャーのアイコンであった。深夜と煙草と酒の声、常に黒い衣装を纏っていた日版ジュリエット・グレコのような装い、個人的な面と政治的な面の両方で、敗北や失望や喪失を味わった同時代の人々を、静かに癒してくれた…」 デビュー時からずっと浅川マキのプロデューサーだった寺幸司は、しばらく前にロンドンのEMI社を通じて、コンピレーション・アルバムの発売の許諾を出したにもかかわらず、その後はずっと制作の進捗状況がわからないままだったという。 なぜならば日の発売元だった東芝EMI(当時はEMIミュージック・ジャパン

    むつひろしと浅川マキのソングライティングによる「ちっちゃな時から」
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    gosan503 2019/01/25
    浅川マキさんのUK盤には全18曲が収録されていました。その2曲目と6曲目に入っていたのが同一曲、「ちっちゃな時から」のライブ・ヴァージョンとスタジオ・ヴァージョンです。
  • あえてプロテストソングと銘打って新しいアルバム『自由』を発表した結成50週年の六文銭|Extra便|TAP the POP

    六文銭は1968年に小室等が中心となって結成されたグループで、小劇場演劇から生まれた佳作の「雨が空から降れば」、ポップスの傑作とささやかれた「夏・二人で」、1971年の「第2回世界歌謡祭」のグランプリ受賞曲でゲスト・ヴォーカルの上條恒彦が歌った「出発(たびだち)の歌」などが代表作である。 もともと結成から解散までの間にメンバーが何度も入れ替わったこともあって、バンドというよりはユニットという言葉が似合うグループだった。 しかし小室等とともにグループの中心だったシンガー・ソングライターの及川恒平、ヴォーカルの四角佳子による3人で、「まるで六文銭のように」として2000年に活動を再開したのがきっかけとなり、こむろゆいが2009年に加わったことで「六文銭’09」にグループ名を改めた。 そして結成から50周年を迎えた今年は新しいアルバム『自由』を11月7日に発表したが、それに合わせてグループ名をオ

    あえてプロテストソングと銘打って新しいアルバム『自由』を発表した結成50週年の六文銭|Extra便|TAP the POP
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    gosan503 2018/12/14
    なかでも「てんでばらばら~山羊汁の未練~」は21世紀の日本語の歌として、も新境地に到達している作品で一聴に値します。
  • 初期のボブ・ディランによるプロテスト・ソングの傑作「ハッティ・キャロルの寂しい死」|TAP the SONG|TAP the POP

    ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの寂しい死(The Lonesome Death of Hattie Carroll)」は、1963年に起きた殺人事件に題材を得て作られたプロテスト・ソングの傑作といわれる。 冒頭から殺人が淡々と語られるところなどは、殺人を克明に描いた”マーダー・バラッド”と呼ばれる曲の影響を感じさせる。 アメリカのアパラチア地方と呼ばれる一帯では、時事的な内容を発展させた”マーダー・バラッド”が古くから伝わり、それが口伝で歌い継がれてきた。 西はアパラチアの一帯とつながっているメリーランド州最大の都市、ボルティモアにあるエマースン・ホテルで51歳になるウェイトレス、ハッティ・キャロルという黒人女性が、24歳の白人男性に殴り殺されるという事件が報道されたのは1963年の春のことだった。 ウィリアム・ザンジンガーは哀れなハッティ・キャロルを殺した ダイアモンドの指輪はめた

    初期のボブ・ディランによるプロテスト・ソングの傑作「ハッティ・キャロルの寂しい死」|TAP the SONG|TAP the POP
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    gosan503 2018/12/14
    ボルティモアのホテルで開かれた社交界の催しで、ハッティ・キャロルという51歳の黒人女性が、24歳の白人男性に殴打されて死亡したという事件が報道されたのは1963年の春だった。
  • ロック黎明期に登場したカルメン・マキ&OZのギタリスト~春日博文の静かなる復活①

    のロックが黎明期にあった1970年代の初めに、格的なロックバンドの「カルメン・マキ&OZ」を率いて活躍した春日博文が、64歳にして初のソロ・アルバム『独りの唄』を発表したのは2018年の5月のことだ。 春日はカルメン・マキ&OZが1977年に解散した後に、暗黒時代といわれたRCサクセションにギタリストとして参加し、エレキバンド化を推進するなど重要な役割を果たしたことがある。 その後は次第にプロデューサーの仕事へと活動の主軸を移して、1980年代後半からは韓国のソウルに住むようになり、若い音楽家たちを育ててプロデュースしながら、自らも韓国語で作品を発表してきた。 そんな音楽活動を経て到達したのが、初めて日語で歌ったアルバム『独りの唄』だった。 ウクレレを中心とする軽やかなサウンドにのって、やさしく人なつっこい感じの歌が展開していく内容で、バラエティに富んだオリジナル作品はどれも新鮮だ

    ロック黎明期に登場したカルメン・マキ&OZのギタリスト~春日博文の静かなる復活①
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    gosan503 2018/08/18
    「突然ですが カルメンマキ&OZ やります!」とベースの川上シゲさんがFacebookに書き込んだのは8月16日の午後でした。 ”41年振りの単独公演!復活ライヴ!”は10月7日です。
  • 追悼・水橋春夫~音楽面からジャックスを自然に輝かせていたポップス少年の感性

    1960年代の後半に忽然とアルバム・デビューしたジャックスは、はっぴいえんどと並んで日のロックを語るときに欠かせない存在である。 しかし68年のデビュー・アルバム『ジャックスの世界』を発表するとほぼ同時に、ギターの水橋春夫が脱退の意思表示を明らかにしたため、思うように活動ができずに早すぎた幻のバンドとして伝説になっていくしかなかった。 ジャズのレコードをリリースし始めたばかりで、ほんの小さなレーベルだったタクトからシングル盤の「からっぽの世界」が発売されたのは1968年3月のことらしい。 そのときのメンバーは早川義夫(ギター・ピアノ・ヴォーカル)、谷野ひとし(ベース)、木田高介(ドラム・パーカッション・サックス・フルート、名は桂重高)、水橋春夫(ギター・ヴォーカル)の4人だった。 その直後、彼らはパシフィック音楽出版(PMP)の朝一郎から声をかけられて契約を結び、同社の原盤でニッポン

    追悼・水橋春夫~音楽面からジャックスを自然に輝かせていたポップス少年の感性
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    gosan503 2018/08/12
    「水橋春夫グループ」名義で2015年にアルバムをリリースし、現役に戻ったときに初めてお目にかかったのですが、想像していた通りにポップス少年の面影が印象に残っています。あらためてご冥福をお祈りいたします。
  • 中島みゆきが「タクシードライバー」という歌の中に取り上げた「アローン・アゲイン」

    「アローン・アゲイン (ナチュラリー) 」はアイルランド人のシンガーソングライター、ギルバート・オサリヴァンの楽曲で1972年にリリースされたところ、口ずさみやすいメロディーで世界的な大ヒットになった。 アメリカのBillboard Hot 100のシングルチャートでは、7月から9月にかけて合計で6週も1位の座にあった。 国のイギリスでは最高3位だったが、日でもオリコンの洋楽シングルチャートで10月23日から5週連続1位を獲得している。 ソフトな歌声と親みやすいメロディーのおかげで多くの人達の共感を生んだが、歌い出しから飛び降り自殺を予告するような歌詞は深刻で、孤独な男の究極のうめきともいえる内容の歌であった。 1946年12月1日アイルランドのウォーターフォードに生まれたレイモンド・エドワード・オサリヴァンは、13歳の頃に家族と共にイングランドにやってきた後に美術大学に進んだ。 その

    中島みゆきが「タクシードライバー」という歌の中に取り上げた「アローン・アゲイン」
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    gosan503 2018/08/10
    中島みゆきが1979年3月21日に発表した5枚目のアルバム『親愛なる者へ』で、2曲目に収録された「タクシー ドライバー」に登場してきます。
  • 初めてライヴを観たステージに30年以上の時を経て立ったデイヴ・グロール

    元ニルヴァーナのデイヴ・グロールを中心とするロックバンド、フー・ファイターズが2014年の11月にリリースした8枚目のアルバム『ソニック・ハイウェイズ』。 この作品はアメリカの8都市をテーマに、各都市で1曲ずつレコーディングするというコンセプトで作られており、アルバムの1曲目を飾る「サムシング・フロム・ナッシング」はシカゴで制作された楽曲だ。 そのアルバム・リリースに先駆けて、フー・ファイターズがシカゴでライヴをしたのは10月17日のことだ。 会場となったのはカビー・ベアーという収容人数4~500人程度のクラブで、バンドの人気と集客力を考えればあまりにも小さすぎた。 だがデイヴには、どうしてもカビー・ベアーでライヴをしたい理由があった。 そこは、デイヴが13歳のときに初めて生のライヴを観た場所であり、人生が変わった場所だったのだ。 1969年1月14日生まれのデイヴ・グロールはオハイオ州の

    初めてライヴを観たステージに30年以上の時を経て立ったデイヴ・グロール
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    gosan503 2018/05/29
    いい話です。パンクも、グランジも、演歌も、浪花節も、もちろんロックもジャズもブルーズも、心は通じる1
  • 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

    Home TAP the SONG 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日人の歌になった - TAP the POP 1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日中から注目される存在になった。 そしてプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、フォークルのセカンド・シングルに決まったのは「イムジン河」だった。 後に加藤和彦とコンビを組んでフォークルやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当する松山猛が、この歌に出会ったのは少年時代にさかのぼる。 京都に生まれ育った松山は中学生の時に、いがみ合いやけんか騒ぎが日常茶飯事だった朝鮮学校と日の学校との間を仲良くできないものかと考えて、学校同士でサッカーの対抗試合を行うことを思いついた。 銀閣寺の

    発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった
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    gosan503 2018/04/28
    ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」発売中止から50年。この歌に込められた松山猛と加藤和彦の平和への願いが叶う日が、いよいよ訪れようとしています。
  • 伊藤銀次の自伝「MY LIFE, POP LIFE」に生き生きと描かれる日本のポップスとロックの誕生絵巻

    Home TAP the BOOK 伊藤銀次の自伝「MY LIFE, POP LIFE」に生き生きと描かれる日のポップスとロックの誕生絵巻 - TAP the POP 伊藤銀次は大滝詠一からその昔、「伊藤銀次はフィクサー、ロック界のキッシンジャーだ」と言われたことがあったという。自分で意図してそうしているつもりはまったくないにもかかわらず、外から冷静に観察して分析する大滝詠一には、そのように見えていたのである。 気になる人がいると会ってみたくなり、どういうわけか会えてしまう。 それは好奇心が旺盛で夢見がちだった少年の頃から、青年時代を経て現在に至るまで一貫して変わることがなかった。 なぜならば大滝詠一が喝破したとおり、伊藤銀次の質に根ざすものだったからだ。 日がまだ戦後の焦土から少しずつ立ち直ってきた1950年代、行動半径が幼稚園までの1キロメートル前後だった頃、晴れた日にはいつも自

    伊藤銀次の自伝「MY LIFE, POP LIFE」に生き生きと描かれる日本のポップスとロックの誕生絵巻
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    gosan503 2018/04/27
    どこを開いても面白い本なのですが、「沢田研二とのレコーディング:1980-1982」という章のなかでは、伝説のエンジニアだった吉野金次の仕事ぶりや、佐野元春との接点が描かれています。
  • ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」

    中森明菜のセカンド・シングルとして「少女A」が世に出て注目を集めたのは、1982年7月28日のことだった。 広告業界でコピーライターとして働きながら作詞の仕事を始めた売野雅勇は、まだ駆け出しの身であったが、アンテナ感度の鋭い大瀧詠一などから注目を集めていた。 同じ年の2月に発売された『機動戦士ガンダムⅢ』 の主題歌「めぐりあい」は、売野の才能にいち早く気づいた作曲家の井上忠夫が自分で歌って、初のヒットをもたらしてくれた。 売野はその頃に作詞家として契約していた事務所で、スタッフから1枚のチラシを渡されてこう言われた。 ともかく目立つものを書いて下さい。前に書いた、シャネルズだって、河合夕子だって、普通じゃないですから。自分が面白がって書いたら、いい作品になると思います。 ワーナー・パイオニアが力を入れて売り出していた新人の中森明菜は16歳、売野はひとまずコンペ用に作品を書いてみることにした

    ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」
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    gosan503 2018/04/20
    この1曲によって80年代の歌謡曲シーンの情勢が、一気に変わったという印象がありました。はっきりした主役交代だったと思います。
  • 久世光彦特集~「爪」という曲が好きで最後の4行だけを小さな声で歌っていた向田邦子

    大学を出てTBSに入ってからテレビドラマの演出で活躍していた久世光彦が、師匠筋にあたる森繁久彌の紹介でラジオ番組の台を書いていた若い放送作家の向田邦子と出会ったのは、1960年になってすぐのことだった。 それ以来、ふたりは演出家と脚家としてドラマの制作現場でともに戦ってきた、いわば同志ともいえる関係が20年も続く。 久世と向田が組んだドラマは、森繁久彌主演の『七人の孫』から始まり、大ヒットしたシリーズの『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』のほか、『せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談』『源氏物語』『冬の家族』などがある。 そんなふうに長きにわたって一緒に仕事をしていた同志が、台湾旅行に出かけて飛行機事故に遭遇し、不慮の死を遂げたのは1981年のことだった。 ショックを受けた久世はその翌年、向田への思いをまとめて「触れもせで~向田邦子との二十年」というを上梓する。 ●この書籍の購入はこちらから

    久世光彦特集~「爪」という曲が好きで最後の4行だけを小さな声で歌っていた向田邦子
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    gosan503 2018/03/28
    音楽舞台「マイ・ラスト・ソング」のテレビ版がNHK総合で今夜22時からオンエアされますが、満島ひかりさんが歌った「爪」という歌と、作家の向田邦子さんにまつわるエピソードです。
  • 久世光彦特集~あなたのマイ・ラスト・ソングは何ですか?

    久世光彦が2006年に急逝したことをきっかけに誕生した音楽舞台の「マイ・ラスト・ソング」は、 シンガー・ソングライターの浜田真理子がピアノの弾き語りで、久世がエッセイに書き残したさまざまなジャンルの歌をうたい、 久世のことを恩師と慕う小泉今日子がトークと朗読で出演するというものです。 そこには久世がこよなく愛した歌や涙した歌の数々が、忘れえぬ人たちとの想い出や時代の息吹とともに描き出されていきます。 ほんとうに歌が好きだった久世には、「自分が覚えられない歌はよい歌ではない」という持論がありました。 そして朋友だった作詞家の阿久悠とは、いつも歌を通じてお互いの感性を確認し合うという仲でした。 ふたりが出会って間もないころに作詞を手がけるようになった久世は、小谷夏という名前で堺正章や天地真理、沢田研二の歌を書いています。 そして市川睦月の名前で書いた香西かおりの「無言坂」で、1993年にはレコ

    久世光彦特集~あなたのマイ・ラスト・ソングは何ですか?
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    gosan503 2018/03/20
    久世さんは本当に歌が好きで、たくさんのエッセイを書き残してくれました。久世さんが関わった名曲の数々には、実にさまざまなエピソードがあります。
  • 久世光彦特集~テレビ版『マイ・ラスト・ソング 人生の最後に聴きたい歌は』

    昭和の時代には”変な歌”が急に脚光を浴びて、大ヒットを記録するということがしばしば起こった。 そうした”変な歌”というのは単にコミカルだというのではなく、時代感覚的にも、音楽的にもユニークなものであった。 たとえば1961年の「じんじろげ」(森山加代子)と「スーダラ節」(植木等)、1967年の「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)、1972年の「赤色エレジー」(あがた森魚)、1975年の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)…。 テレビドラマの演出家で、作家でもあった久世光彦はエッセイ集「マイ・ラスト・ソング」のなかで、”変な歌”についてこのように語っている。 《変な》というのは《変に新しい》――つまり、いままであまり聴いたことのない曲想と、これまたユニークな歌い方の歌手と――ふたつが揃った歌のことで、私にいま、そのベスト・スリーを挙げろと言

    久世光彦特集~テレビ版『マイ・ラスト・ソング 人生の最後に聴きたい歌は』
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    gosan503 2018/03/16
    久世光彦さんは70年代のフォークソングをひとつだけ選ぶとすれば、ためらうことなく「プカプカ」だと答えています。
  • 純烈は不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走ってきた

    Home TAP the DAY 純烈は不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走ってきた - TAP the POP 「3月11日はやはり東日大震災が起きた日として自分の中に在ります」と語るのは、歌謡コーラス・グループ「純烈」を結成してリーダーとなり、プロデューサー役を務めている酒井一圭である。 彼が結成した純烈は、3年に及ぶ準備と助走の期間を経て、2010年6月にメジャー・デビューを果たしている。 しかし「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズなどで、子どもたちのヒーローを演じた俳優を中心に結成された純烈は、活動を始めた時点で平均年齢が30代を超えていた。 大きなバックボーンもないなかで始めた音楽活動だったので、仕事は少ないし知名度もなかなか上がらず、先行きを考えると道は険しいものだった。 そんななかで2枚目のシングルを出す予定だったところへ、2011

    純烈は不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走ってきた
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    gosan503 2018/03/11
    この東日本大震災のときの避難所におけるエピソードによって、純烈というグループの魅力がはっきりと理解できました。
  • 中森明菜によって新たな生命を吹き込まれた加藤登紀子の「難破船」

    「難破船」は加藤登紀子が1984年12月1日にリリースしたアルバム『最後のダンスパーティー』の収録曲で、発表当時はアナログ盤のA面2曲目であった。 40歳を迎えたその年、加藤登紀子は歌手としての現在と将来について、人知れず悩んでいたという。 もう若くはないが、熟してもいない。守りに入ったら後退あるのみ。 そんな不安もあった。だからこそなのか、この一年はいろんなことにやたら挑戦した一年だった。 前の年に出演した高倉健主演の映画『居酒屋兆治』で日アカデミー賞助演女優賞を受賞したことから、NHKの朝の連続テレビ小説『ロマンス』に”歌う謎の女”の役で出演した。 阿久悠の作詞で自身が作曲した新曲、「風来坊」をシングルで発表したのも4月だった。 さらにシアターアプルでは『ツェッペリンの見た夜』という、ミュージカル仕立ての音楽会を演出家の佐藤信と組んで開幕している。 その上に、初めての自伝「ほろよい行

    中森明菜によって新たな生命を吹き込まれた加藤登紀子の「難破船」
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    gosan503 2018/03/03
    この時に中森明菜さんが歌った「難破船」は、永久保存版に値すると思います。
  • 幻の音楽番組となっていた『セブンスターショー』を作ったドラマの鬼才・久世光彦|Extra便|TAP the POP

    1976年2月15日から3月28日までの7週間 、日曜日の19時30分~21時までという当時のゴールデン・タイムを使って、『サンデースペシャル・セブンスターショー』と題した音楽番組がTBS系列でオンエアされた。 NHKの大河ドラマは絶大な人気があったが、その年の1月4日から加藤剛と吉永小百合が主演する『風と雲と虹と』をオンエアし、初回から30,1%という高視聴率で始まっていた。 そこにTBSがぶつけたのが90分、全7回の音楽スペシャル番組である。 企画とプロデュースを手がけた久世光彦はテレビドラマの世界で、斬新で型破りな作品を発表して鬼才と謳われていた人物だ。 TBSのドラマ班で演出家とプロデューサーを兼ねていた久世は、1971年から始めたTBSの水曜劇場『時間ですよ』が平均視聴率29,5%、最高36,2%という数字を上げて、1973年の第3期まで続く人気ヒット・シリーズに成長させていた。

    幻の音楽番組となっていた『セブンスターショー』を作ったドラマの鬼才・久世光彦|Extra便|TAP the POP
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    gosan503 2018/03/03
    オンエアのときに見逃してしまって、40年以上も口惜しい思いをしています。久世さんのなかでも特にDVD化してほしい作品です。
  • 今、世界で注目を集める日本の音楽~『Even A Tree Can Shed Tears : Japanese Folk & Rock 1969-1973』

    今、世界で注目を集める日音楽~『Even A Tree Can Shed Tears : Japanese Folk & Rock 1969-1973』 ここ数年、アナログ・レコードの人気とともに欧米の若者の間で、にわかに日音楽への注目が集まっているようだ。 まずは2015年、英国のレーベルHonest John’s Recordsがアングラの女王、浅川マキのアルバムを企画し、リリースしている。 また、昨年テレビで放映されたバラエティー番組では、大貫妙子のアナログ・レコードを探しに日にやってきたアメリカ人男性が話題になったことも記憶に新しい。 そして2017年10月に、アメリカはシアトルのリイシュー専門レーベルLight In The Attic Recordsよりリリースされたのが、1969年から1973年の日のフォーク・ロックばかりを集めたコンピレーション・アルバム『Eve

    今、世界で注目を集める日本の音楽~『Even A Tree Can Shed Tears : Japanese Folk & Rock 1969-1973』
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    gosan503 2018/02/23
    選曲が実にいいなぁ。ほんとうに「日本のフォーク&ロックがよくわかっている!」と感心してしまいます。
  • 追悼・西部邁~歌謡曲を心から愛した素朴な先生が口ずさんでいた仲宗根美樹の「川は流れる」

    小田急線 の祖師ヶ谷大蔵駅から南に歩いて3~4分のところに、西部邁さんが常連として通った小さなバーがある。 名前は「Rose(ローズ)」、地元の常連のほかに音楽関係者の姿も見られる。 店のママは坂ナポリさん、若い頃は音楽事務所に勤務していた洋楽ファンで、実験的ポップス・ユニットのSPANK HAPPYのマネージャーだったこともある。 およそ4半世紀は音楽関係の仕事に従事していたが、50歳で辞めてサロン的なCafe & Barの「ローズ」を開いたという。 しかし全く経験ないまま、生まれて初めて飲店を経営してみたが、なかなか水商売は大変だと思って落ち込んだ時期があった。 そんなある日突然、客が誰もいない店のドアがギギーっと開いて、カウンターの中で座っていたナポリさんが立ち上がると、小柄な老人が「いいかね?」と言って、スッスッと入ってきた。 それが全盛期の『朝まで生テレビ!』で顔も声もよく知

    追悼・西部邁~歌謡曲を心から愛した素朴な先生が口ずさんでいた仲宗根美樹の「川は流れる」
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    gosan503 2018/02/09
    先生と呼べる方に初めてお目にかかったと思い、その時に感じたことや考えてきた歌の話を、少しですが書くことができました。どうぞ安らかにお眠り下さい。
  • Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)〜車椅子の作詞家が最愛の妻に贈った究極のラブソング

    この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」は、越路吹雪の十八番(おはこ)として広く知られていたため、日ではシャンソンと思っている人が多くいるという。 越路のマネージャー兼生涯の親友だった岩谷時子が、多くのシャンソンに日語訳をつけていたことが理由とされている。 しかし、この歌はフランスで生まれのシャンソンではなく、アメリカ産のポップスなのだ。 また、オリジナルを唄ったのがベン・E・キングも在籍していた人気コーラスグループのザ・ドリフターズ(The Drifters)で、アトランティックレコードから発売されたということで、黒人音楽のヒット曲と思い込んでいる人も多いという。 ところが、この楽曲を手掛けたドク・ポーマス(作詞)もモルト・シューマン(作曲)も白人なのだ。 後にエルヴィス・プレスリーへの楽曲提供で名を馳せたポーマスとシューマンの二人は、195

    Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)〜車椅子の作詞家が最愛の妻に贈った究極のラブソング
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    gosan503 2018/02/02
    今日の越路吹雪物語はこのなの曲かな?
  • エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」④~アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌~

    Home TAP the SONG エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」④~アメリカ軍兵士と日人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌~ - TAP the POP エディ藩はザ・ゴールデン・カップスが解散した1972年以後もギタリスト、ヴォーカリストとして音楽活動を続けて現在に至っている。 1981年にソロで発表した「横浜ホンキートンク・ブルース」は派手なヒットにはならなかったが、さまざまなシンガーにカヴァーされてスタンダード・ソングになっている。 そんなエディ藩が1997年に発表したにもかかわらず、人前では歌うことなく”封印”していたという歌がある。 音楽評論家の越谷政義による「ジャパニーズ・ロック・インタビュー~時代を築いた20人の言葉~」(TOブックス)は、日のロック界を牽引してきたバンドマンやミュージシャンによる証言をまとめた書だが、そのなかでエディ藩

    エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」④~アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌~
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    gosan503 2018/02/02
    しばらく歌うことを封印していた理由について、エディ藩は「なんかね、ぐっと涙ぐんじゃって歌えなくなっちゃうんだよね。いろんなこと思い出してさ。だから未だに封印している」と語っていました。