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ethicaと哲に関するgraphのブックマーク (8)

  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

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    graph 2008/05/13
    たたかれそうな内容ではあるけれど、まんま自分が意識していることでもある。
  • レヴィナス先生、こんにちは - 内田樹の研究室

    ゲラの山が二つに減ったので、レヴィナスの『困難な自由』の校正にとりかかる。 今年のはじめくらいに受けとったまま、次々やってくる急ぎのゲラに押しやられて、これまで日陰の身に甘んじていたのである。 すまない。 私ののゲラなんか、ほんとはどうだってよいのである。 レヴィナス老師の翻訳を一日でも早く出すことの方が出版史的には比較を絶して重要性が高い仕事なのであるが、なかなか世の中はそのような常識が通らないのである。 今回の『困難な自由』は1963年の初版を底としている。 これはもう入手が不可能であろうと思われていたのであるが、奇跡的に発掘されたのである。 そしてここには再版では削除されていた論文が七つ収録されている。 これは今回はじめて訳出される。 再版に際して削除した理由はよくわからない。 論文のいくつかはソ連型社会主義とそれに拍手を送っていたフランスの左翼知識人に対する批判である。 195

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    graph 2007/08/22
    「個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを「道徳的な社会」と言うことができるであろうか。」
  • 因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を

    当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す

    因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を
  • 知ることの意味は何? - 記憶の彼方へ

    昨日講義を終えて研究室に戻り講義記録を書いていたら、ひとりの学生が訪ねてきた。相談があるという。一言では言えないその膨大な内容をその学生は言葉を選び選び慎重に慎重に言葉にした。「知ることにどんな意味があるのでしょうか」、「知らないほうが幸せではないのでしょうか」。「おー、来た、来た」と思って、私は嬉しかった。 問うことは難しい。上手に問うことができるようになれば、答えを手に入れたも同然である。抽象的な問いかけは少しずつ少しずつ具体的な問いかけに翻訳していくのがいい。そうすれば自ずと自分が当に問いたいことが見えて来る。 学生と対話しながら、私はかつての私、もう完全に赤の他人のような若い頃の自分を思い出していた。 大学1年のときだった。私は「科学史」の講義をとっていた。教えていたのは岡不二太郎先生で、数学者の岡潔の弟さんだった。私は高校時代受験勉強の合間に岡潔の随筆をよく読んでいて、数学者に

    知ることの意味は何? - 記憶の彼方へ
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    graph 2006/11/13
    なんかいいなと思った。人間は今まで「知り続けて」ここまで来たのだから自分が放棄する訳にはいかないのだとも思った。
  • 「で、みちアキはどうするの?」 - 「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」

    ……というような検索wordsがアクセスログに残っていました。それでこの日記をリストアップするとはGoogle様もシャレがキツいよな。まぁせっかくですので、ちょっとお答えしてみたいと思います。 まず、「正しさ」という概念ですが、これは、世界をちいさな「箱」に区切らないと出てこないもの、なんですね。だいたいの人においては、箱のおおきさは、空間的には身の回りや近所〜自分の国ぐらい、時間的には自分の生まれたころ〜死んだすこしあと、ぐらいになっていると思います。風が吹けば桶屋が儲かる、ではないですが、なにかコトが起きたときの影響の連鎖は、追っていけばいつまでもキリがないんです。だから、ある程度のところで区切るしかない。そうすることでやっと、(「箱」のなか限定の)「正しさ」が見えてくる。なにが正しいのか判断ができるようになる。しかし、「箱」の中では直線に見えたものも、箱から飛び出した先をずっと追って

    「で、みちアキはどうするの?」 - 「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」
  • http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20060828

  • 正義を行う正義 - takoponsの意味

    正義の名のもとに行われる集団圧力は、不正義なものになりがち。 それは、なぜだろう? 正しいことが正義、善。 間違っている相手が悪。 多勢(みんな)の中に居る安心感。 正義に関与している自分が好き。 みんなで悪をやっつけようぜ! 【善と悪】 善と悪について 善とは、相手を生かすこと、相手を認めること。 悪とは、相手を殺すこと、相手を否定すること。 正義の名のもとに行われる集団圧力によって、相手は抹殺される。 相手を全否定する行為は、悪である。 ここで、正義が悪に変わる。 正義は相対的なものだということが分からないから、正義は暴走し、悪に変わる。 正義は、簡単に悪に変化する怖いもの。 私はこういう人たちの根拠希薄な正義とか、一つうえのコメントと全く同じ内容の文章を恥ずかしげもなく堂々と書ける神経や、批判対象の質を自分の目でみなくてだれかのフィルターを通して見たものを信じてしまう単純さや、自分

    正義を行う正義 - takoponsの意味
  • 未映子の純粋悲性批判: 子猫を殺し続ければよろしい

    作家の坂東眞砂子さんという人が日常的に子を殺しているのだそうだ。 なぜ殺してはいけないかという「なぜころ問題」についてちょっとでも考えたことがあれば、殺してはいけないという絶対的な理由なんかはこの世界のどこにもなく、あらゆる命は等しく無価値(by新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」)であり、そのとき折々の関係性で成立するもんであって、つまりオール時価なわけだ。坂東さんのように生まれたしりから子を崖にぽいぽいと放り投げることが出来る人はそれが出来るのだから出来る人なんであって、そのことについて「がかわいそうニャ」とか「呪われろ!」とかを云っても書いても、気持ちはわかるが仕方ないんであって、坂東さんの住んでる地域では法律違反でもなさそうだし、どうにもならんな。 坂東さんは人間側から想像する<の生>を<生殖がすべてである>と解釈して代弁しつつ、尊重する手段として避妊手術を否定し「能の

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    graph 2006/08/24
    確信犯とか愉快犯に対しては肯定も否定もロジックで説明しちゃいかんのかもしれん、と思っていたのがストンと落ちた気がする。黙して頑として与しないこと、だよなあ。シャイネスの欠落は批判側にも存在しうるかと。
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