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ブックマーク / rekishikaido.php.co.jp (2)

  • 宇都宮釣天井事件とは~本多正純の失脚

    徳川家康の謀臣・多正純が没 今日は何の日 寛永14年3月10日 寛永14年3月10日(1637年4月5日)、多正純が没しました。父・多正信とともに、徳川家康の謀臣であった人物です。 多正純の父・正信は、家康の家臣でありながら三河一向一揆で一揆方についてそのまま出奔、諸国をめぐったといわれます。その間、息子の正純は家康臣下のもとで保護され、父・正信が徳川家に帰参が叶うと、正純も家康の側近くに仕えるようになります。 正純は関ケ原の合戦にも出陣し、敵将・石田三成の身柄を預かりました。偶然ですが、その後の正純はどこか三成と似ています。征夷大将軍、さらに大御所となった家康が最も重用する能臣であった正純は、やがて下野国小山藩3万3000石の大名に取り立てられ、二代将軍秀忠の補佐役・大久保忠隣の政敵となりました。そして慶長19年(1614)には、大久保長安事件で忠隣を失脚させています。 大坂の陣

    宇都宮釣天井事件とは~本多正純の失脚
  • 旭将軍・木曾義仲~その出自から最期まで

    木曾義仲が近江国粟津で討死 今日は何の日 寿永3年1月20日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)、源義仲(木曾義仲)が近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討死にしました。『平家物語』で、旭将軍と称された武将です。 義仲は久寿元年(1154)、源義賢の次男として、武蔵国大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)で生まれました(出生地は異説あり)。幼名、駒王丸。 翌久寿2年(1155)、父・義賢はその兄・義朝と対立、義朝の息子・義平が大蔵館を襲って、義賢を討ちました。この時、2歳の義仲は、武蔵武士団の斎藤実盛によって、信濃の中原兼遠のもとへ逃がされます。 中原兼遠は義仲の乳夫となり、義仲をその腕に抱いて、木曾谷へと逃れました。 義仲は木曾次郎と名乗り、兼遠の子・樋口次郎兼光、今井四郎兼平らとともに木曾の山中で成長します。兼光、兼平はやがて、義仲の重臣となりました。一説に巴御前も兼遠の娘ともいいます

    旭将軍・木曾義仲~その出自から最期まで
    gui1
    gui1 2020/06/11
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