大友義統(おおともよしむね)は、豊後の戦国大名である第21代当主・大友義鎮(のちの大友宗麟)の長男として1558年に生まれた。 母は、奈多夫人(奈多鑑基の娘)。 幼名は長寿丸。号は宗厳。将軍・足利義昭の偏諱を受け義統と名乗った。弟に田原親家、田原親盛などがいる。 大友家は1570年の時点で、豊後国、豊前国、筑後国、筑前国、肥後国、肥前国、日向国、伊予国半国を支配下に置いたが、今山の戦いで、龍造寺隆信の家臣・鍋島直茂に敗北。 1576年、父・大友宗麟が隠居した為、家督を継いで第22代当主となった。ただし、大友家の実権は依然として父が掌握していた。 1578年、日向国に侵攻したが、耳川の戦いで島津勢に大敗を喫し、大友家は弱体化し始め、以後は大友家臣団の分裂が始まった。 また、父との二頭政治にも弊害が現れ父と対立。 有力庶家である田原親貫が1579年に反乱(田原親貫の乱)、1580年には田北紹鉄