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ブックマーク / senjp.com (6)

  • 大友義統の解説 逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?

    大友義統(おおともよしむね)は、豊後の戦国大名である第21代当主・大友義鎮(のちの大友宗麟)の長男として1558年に生まれた。 母は、奈多夫人(奈多鑑基の娘)。 幼名は長寿丸。号は宗厳。将軍・足利義昭の偏諱を受け義統と名乗った。弟に田原親家、田原親盛などがいる。 大友家は1570年の時点で、豊後国、豊前国、筑後国、筑前国、肥後国、肥前国、日向国、伊予国半国を支配下に置いたが、今山の戦いで、龍造寺隆信の家臣・鍋島直茂に敗北。 1576年、父・大友宗麟が隠居した為、家督を継いで第22代当主となった。ただし、大友家の実権は依然として父が掌握していた。 1578年、日向国に侵攻したが、耳川の戦いで島津勢に大敗を喫し、大友家は弱体化し始め、以後は大友家臣団の分裂が始まった。 また、父との二頭政治にも弊害が現れ父と対立。 有力庶家である田原親貫が1579年に反乱(田原親貫の乱)、1580年には田北紹鉄

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    gui1 2023/01/05
  • 更科六兵衛~笠原新六郎【ステキな金縛り】清須会議

    三谷幸喜監督の映画「ステキな金縛り」「清須会議」(清洲会議)にも登場する西田敏行さん扮する武将・更科六兵衛。 2011年に公開された「ステキな金縛り」は、自信を失っていた女性弁護士・宝生エミ(深津絵里さん)が、証人として法廷に幽霊の更科六兵衛を登場させると言う、大変ユーモアがあり、尚且つ、感動できる三谷幸喜脚らしい映画で、大変評価できる。 【PR】 更科六兵衛は架空の武将だが、モデルになった武将がいると言われ、それが「笠原新六郎」と言う武将だ。 この笠原新六郎の出自は、信濃・佐久の志賀城城主・笠原新三郎清繁(笠原清繁)の笠原家と考えられ、1547年に武田家が攻めた際、落城し荻原昌之に討ち取られた。 この時、笠原清繁のは、武田家臣・小山田信有の側室となり、生け捕られた女・子供や家臣らも全て甲府へ連行され、人身売買されたとされる。 なお、笠原一族である笠原光貞(笠原能登守光貞)は相模の北条

    更科六兵衛~笠原新六郎【ステキな金縛り】清須会議
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    gui1 2022/09/11
  • 森可成 攻めの三左と呼ばれた槍の名手

    森可成(もりよしなり)は1523年に尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)で生まれた。 父は森可行(もりよしゆき)で、祖父・森可秀が1528年に、小谷城付近で討死し、家督を継いで美濃の土岐氏に仕えた。 この頃の土岐家は、斎藤道三が頭角を現していた頃である。 母は青木秀三の娘(または大橋重俊の娘)。 1542年、斎藤道三が土岐頼芸を追放すると、父・森可行は密かに織田信秀を訪ねては度々赴き誼を通じ、1554年までに子の森可成と共に、織田信秀の子・織田信長に仕えた。 父は既に高齢だったためか、織田家の家臣になってからは森可成が家督を譲られたようだ。 正室は、えい(妙向尼、林通安の娘)。 六男三女をもうけている。 尾張下4郡守護代・織田信友が、尾張守護・斯波義統を殺害すると、1555年、織田信長は討伐の為、清洲城を攻めた。 この時、森可成は敵の大将・織田信友を討つ功績を挙げた。このように槍の名手

    森可成 攻めの三左と呼ばれた槍の名手
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    gui1 2020/08/21
  • 九鬼嘉隆~九鬼水軍を率いた織田家・豊臣家の水軍大将

    九鬼氏は、天児屋根命(あめの・こやねのみこと)の末裔にして、古来、神祇伯(じんぎはく)を務めた大中臣氏を祖とされる。 熊野宮大社の神官職を代々務め、もともと船を操るのが得意な一族として「熊野水軍」にも君臨していたと考えられる。 その後、熊野を追われ紀伊の九鬼浦に移って九鬼氏を称し、さらに子孫が志摩国・波切の川面氏の養子に入り、勢力を拡大して地頭になり志摩・九鬼氏の祖になったと考えられるが、詳細や出自は不明なところが多い。 “九鬼”は江戸時代頃より一般に“クキ”と通称されているが、来は“クカミ”と称した。 九鬼氏の苦悩 戦国時代になり、九鬼嘉隆 (くき、よしたか 1542年~1600年10月12日)は、九鬼嘉隆は志摩・田代城主である九鬼定隆の次男として波切城にて生まれた。母は甲賀(志摩市阿児町甲賀)の出身と言われるが名や詳細は不明。 この頃の九鬼氏は伊勢国司の北畠氏に属し「志摩海賊七人衆

    九鬼嘉隆~九鬼水軍を率いた織田家・豊臣家の水軍大将
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    gui1 2020/02/08
  • 石船神社に祀られている護良親王の頭蓋骨【山梨県都留市】

    山梨県都留市朝日馬場の石船神社(いしふねじんじゃ)には、大塔宮・護良親王とされる首級が祀られています。 護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)と言う御仁は、建武の新政を行い吉野に南朝を開いた事で知られる後醍醐天皇の皇子で、大塔宮(だいとうのみや)とも呼ばれます。 護良親王は父・後醍醐天皇の為に、武器を持って東国にて戦っていましたが、結果的に父の意向で捕えられて、鎌倉の土牢に幽閉されます。 その後、北条時行の中先代の乱が起こると、1335年7月23日、足利直義が鎌倉から脱出する際に、家臣の淵辺義博に命じ、護良親王は殺害されてしまいました。護良親王、享年28歳です。 この辺りの話は、護良親王と興良親王【足利尊氏に対抗した生涯】にて別途ご紹介も致しておりますので、よければあとでご覧頂けますと幸いです。 伝承では、折れた刀の刃に噛み付き、目を見開いた物凄い形相の護良親王の首を恐ろしく感じた

    石船神社に祀られている護良親王の頭蓋骨【山梨県都留市】
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    gui1 2016/05/19
  • 小山田氏・小山田有重~小山田氏の祖

    かつて町田市小山田を治めた小山田氏、その末柄であり、武田信玄が相模原市内を進軍した際、武田軍最強と言われた郡内小山田氏、そして、津久井に残る折花姫伝説に関連する小山田氏で戦国時代に君臨した、小山田有信・小山田信茂、そして武田氏滅亡を取り上げました。 鎌倉時代初期の小山田氏 秩父党である秩父重弘の子・秩父有重は、保土ヶ谷の地(榛ケ谷御厨)を治めていたようだが、小山田荘の別当(べっとう=馬牧の管理者)に任命され、現在の町田市下小山田町大泉寺の辺りに、1171年に小山田城(館)を構えたのが鎌倉幕府有力御家人の小山田有重(小山田別当有重)であると伝えられている。 小山田有重の母は横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘とされ、横山党とも姻戚関係にあった。 どうも小山田有重は、横山党出身の母(横山孝兼の娘)遺領を受継いだようだ。小山田有重のは、八田宗綱(宇都宮宗綱)の娘で、一ノ御前(内ノ御前)とも言い、小

    小山田氏・小山田有重~小山田氏の祖
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