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ブックマーク / senseki-kikou.net (6)

  • 「計画に無かった最後の空襲」小田原空襲の戦跡散策

    在りし日の写真と碑文面を総務省サイトより 小田原空襲の碑 第二次世界大戦最後の空襲 大南勝彦 その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並みがひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありました。 第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。 一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。 高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を数えました。 日がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、そ

    「計画に無かった最後の空襲」小田原空襲の戦跡散策
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    gui1 2024/03/15
  • 神奈川県中央部の海軍史跡散策(寒川・大和・綾瀬)

    (平成29年6月・10月撮影) ※2017/6訪問 ・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線) ・大和→厚木空ゆかりの神社 ※2017/10訪問 ・綾瀬→二相空ゆかりの神社 神奈川県中央部の海軍史跡散策 平成29年6月。 海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。 寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線 相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。 地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支

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    gui1 2024/03/15
  • 高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

    以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。 その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。 前回の記録は以下で。 芹沢公園の地下壕 高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。 地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。 雷電 大日帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」 零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。 昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。 「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。 芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電の

    高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)
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    gui1 2024/03/15
  • 「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その2

    平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと... 位置関係 国土地理院航空写真 地図・空中写真閲覧サービス ファイル:USA-R227-A-3-13 1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。 平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。 第二海軍火薬廠 平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など 第二海軍火薬廠第六工場 三菱ケミカル平塚工場 相模海軍工廠科学実験部 平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など 平塚海軍共済病院 平塚共済病院 日国際航空工業 日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など 第二海軍航空廠補給部平塚補給工場 湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など 横須賀海軍工廠造機部平塚分工場 平塚競輪場、三興製鋼

    「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その2
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    gui1 2024/03/15
  • 「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その1

    平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。 編は「その1」となります。 かつての横須賀水交社平塚集会所(現在の旧横浜ゴム平塚製造所記念館)。 位置関係 国土地理院航空写真 地図・空中写真閲覧サービス ファイル:USA-R227-A-3-13 1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。 平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。 第二海軍火薬廠 平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など 第二海軍火薬廠第六工場 三菱ケミカル平塚工場 相模海軍工廠科学実験部 平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など 平塚海軍共済病院 平塚共済病院 日国際航空工業 日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など 第二海軍航

    「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その1
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    gui1 2024/03/15
  • 平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)

    神奈川県川崎市麻生区古沢。 小田急線新百合ヶ丘駅から歩いて10分ほどの里山に、かつて「探照灯基地」があったという。 戦争末期、内地防空の為に、「高射第1師団」が編成。 麾下の「高射砲第112聯隊」は世田谷を部とし東京西部地区、多摩川を挟んで南北に展開していた。 この川崎市麻生区の探照灯基地も、この照空隊陣地の一つであったと思われる。 ちなみに、日陸軍では「照空灯(照空燈)」と呼称し、陸軍船舶部隊及び日海軍では「探照灯(探照燈)」と呼称していたので、来であれば、麻生区古沢での記載は「照空灯基地跡」とするのが正しい。 (現在の自衛隊では「サーチライト」と呼称。 平和の碑 探照灯基地跡 (裏面) 世界第二次大戦により古沢288番地海抜70m地点に探照灯が据えつけられ昭和19年9月20日から昭和20年8月17日まで使用された (側面) 平成2年6月吉日 柿生郷土誌古沢編集委員協力者 里山の

    平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)
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    gui1 2021/11/21
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