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ブックマーク / sirotabi.com (3)

  • 武蔵・沢山城(三輪城) 荻野氏の居城か?

    武蔵・沢山城(三輪城)とは 武蔵・沢山城(さわやまじょう)(三輪城)は、東京都町田市にある城址です。 鶴見川河岸の丘陵の先端付近を広く使っている城で、主郭と考えられる南東端の曲輪の高いとこには、七面堂があり、恐らくは櫓台であったと推測致します。 武蔵・沢山城(三輪城)の築城年代や築城者など、詳しい事は不明である謎の城です。 三輪の地名由来としては、元応年間(1319年-1321年)に、大和国城上郡三輪から、斎藤氏・矢部氏・荻野氏が、この広袴郷に移り住んだことによるとされます。 小田原城の北條氏が相模国を得たころの広袴郷は、成瀬城でも出てくる小山田弥三郎の所領だったと考えられます。 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、八王子城主・北条氏照(北條氏照)より三輪から兵糧を小田原城へ送るよう書簡が見受けられるため、北条氏照の家臣が三輪城主であったと考えられ、今でも麓にお住いの荻野氏が城主だっ

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    gui1 2021/10/26
  • 早川城 渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華

    相模・早川城(はやかわ-じょう)は、神奈川県綾瀬市の市役所から西に500mほど行ったところに「城山公園」にある。 その城山公園一帯が、早川城跡で、標高は46m、比高は12mほどになる。 綾瀬市役所側の北東は、平らな台地であり、城の防衛には向かないため、比較的規模の大きい「空掘」を巡らしたようで、その空掘が残っている。反対の南西側は、早川の谷の段差約12mを天然の要害としている。 地元では昔から「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人・渋谷氏の城館との伝承はあったが、詳細な事はわからず、1889年から1994年の5年間、地元の綾瀬市教育委員会が発掘調査を行った。 その結果、早川台地頂部の平坦には約5000年前・縄文時代中期の竪穴式住居跡が2箇所発見され。勝坂式土器(相模原市)なども多数発見された。 もともと、早川流域(早川郷)では昔は湿地帯も多く、縄文時代の集落跡も多く発見されており、稲作を中心に

    早川城 渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華
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    gui1 2021/04/15
  • 茅ヶ崎城~横浜の整備保存された茅ヶ崎城址公園 | 戦国武将列伝Ω 

    茅ヶ崎城とは 茅ヶ崎城(ちがさきじょう)は、神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎にある標高32m、比高20mの丘城(平山城)です。 鎌倉武士・多田行綱が築城したとの伝承もありますが、現在では、小田原城の北条家による築城と推定されているようです。 新編武蔵風土記稿では、多田山城守塁跡と呼ばれ、平安時代末期の摂津守頼盛の子である多田太郎が城主であったと伝えています。 西方の観音堂は、多田太郎の子孫である多田行綱の建立とされ、東方台地上の寿福寺も多田家菩提所との伝承があります。 恐らくは中の道(中原街道)を抑える為に築かれたのでしょうが、早淵川を使った小舟での水運も可能だったのかも知れません。 戦国時代には小机衆のひとりでこの辺りを知行していた座間豊後が茅ヶ崎城代として城主になったとされていますが、深沢備後守であると言う説もあります。 北条家の勢力が鶴見川流域から早淵川周辺へと伸びていく過程で改修されたと

    茅ヶ崎城~横浜の整備保存された茅ヶ崎城址公園 | 戦国武将列伝Ω 
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    gui1 2018/10/20
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