明治2年、開拓史が設置され、「蝦夷(えぞ)地」と呼ばれていた本道が「北海道」と命名されました。明治3年、開拓次官黒田清隆が北海道の開拓のために開拓者を移住させること、外国から開拓の専門家を招くこと、留学生を派遣して海外事情を学ばせることなどを提案し、翌年アメリカから農務局長ホーレス・ケプロンを招きました。ケプロンは多くの外国人指導者を招き、洋式農法の導入、農学校による人材教育、道路整備、石炭開発、生活資材の自給や輸出を目指した工業などを指導しました。北海道開拓の方向が決まったのです。 明治4年札幌に本府の建設が始まり、明治7年には屯田兵制度が創設され、琴似、山鼻に続き江別には、明治11年屯田兵村が設置されました。図-1に示すように石狩川は曲がりくねり、平野部のほとんどは湿地でした。屯田兵や初期の民間移民団が入植したのは、洪水を避けるため石狩平野の縁辺部の比高(近接した土地の高度差)の高い水