gurenekoのブックマーク (319)

  • 范雎のその後 - Archerの春秋

    魏人鄭安平聞之,乃遂操范睢亡,伏匿,更名姓曰張祿(『史記』巻七十九 范睢蔡澤列傳) 後二歲,王稽為河東守,與諸侯通,坐法誅。而應侯日益以不懌(同上) 【集解】徐廣曰,「五十二年」 應侯因謝病請歸相印。昭王彊起應侯,應侯遂稱病甐(同上) 五十二年, 王稽張祿死(睡虎地秦簡『編年記』 昭王五十二年) 魏で屈辱的な扱い(スカトロプレイ)を受けた范睢(後に應侯)は、鄭安平に匿われて「張祿」と名を改めた。その後、公用で魏を訪れていた秦の謁者である王稽に従って秦に亡命。秦で范睢は宰相にまで昇りつめ、恩人である王稽を河東の守とした。しかし王稽は敵国と通じたため法律に従って誅殺され、范雎は日に日に不安を感じるようになる。また、蔡澤から商鞅や文種などの末路を聞いた范睢は病と称して宰相の印を返上することを請うた。昭王は許さなかったが、ついに病と称して引退した。 范睢の保身と秦の法律の厳しさを語る有名な話である

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    gureneko 2012/12/10
    范雎が実は連座制で殺されていたかもしれないという話。
  • 太半と少半 - Archerの春秋

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    gureneko 2012/12/10
    「太半」と「少半」の定義について。
  • 背水の陣はワシが育てた - Archerの春秋

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    gureneko 2012/12/10
    背水の陣のかなり古い事例。
  • 孔丘先生の後継者たち - てぃーえすのメモ帳

    博士凡仕六旬、老于陳、將沒、戒其弟子曰、魯天下有仁義之國也。戰國之世講頌不衰。且先君之廟在焉。吾謂叔孫通處濁世而清其身、學儒術而知權變。是今師也、宗於有道、必有令圖。歸必事焉。 (『孔叢子』答問) 秦末に蜂起した陳勝に仕えた、孔丘の子孫である孔鮒。 彼は陳勝と運命を共にして命を落とすのだが、その際に上記のような遺言を弟子に残したという。 「魯は仁義を持った国あり、戦国の世であっても儒学の気風が衰えなかった。それに我らが先君(孔丘先生)の廟がある場所でもある。私が思うに(魯出身の)叔孫通はこのイカレた時代でも身を清くすることができ、儒学をまなびながらも権謀術数も知っている人間である。彼こそ今の時代の儒学の指導者である。必ずや良いはかりごとを持っていることだろう。生きて帰ることができたら必ず彼に従うように」 高祖劉邦に仕えた怪しい儒者叔孫通は、孔丘先生の正統後継者から次の首班指名された人物だっ

    孔丘先生の後継者たち - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/12/09
    「高祖劉邦に仕えた怪しい儒者叔孫通は、孔丘先生の正統後継者から次の首班指名された人物だったのだ。」 (『孔叢子』答問)
  • 兄嫁への憎しみ - てぃーえすのメモ帳

    http://d.hatena.ne.jp/Archer0921/20121206/1354796208 これを読んで、ふと漢の高祖劉邦のこれを思い出した。 高祖兄弟四人、長兄伯、伯蚤卒。始高祖微時、嘗辟事、時時與賓客過巨嫂、嫂厭叔、叔與客來、嫂詳為羹盡、櫟釜、賓客以故去。已而視釜中尚有羹、高祖由此怨其嫂。 及高祖為帝、封昆弟、而伯子獨不得封。太上皇以為言、高祖曰「某非忘封之也、為其母不長者耳。」於是乃封其子信為羹頡侯。而王次兄仲於代。 (『史記』巻五十、楚元王世家) 高祖はかつて賓客に兄嫁のところの事をべさせようとしたが、兄嫁はあつものが空っぽになっていると見せかけた。 高祖は兄嫁のその行為を恨んでおり、天下を取ってからもその兄嫁の子には領地をやらず、父のとりなしでやっと「あつものを減らした」というあてこすりとしか思えない名前の爵位を与えたという。 この話を見て「高祖大人げなさすぎ

    兄嫁への憎しみ - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/12/07
    劉邦は兄嫁への恨みの中でも、特に賓客への食事に関する一件を重視していた。その理由を分析している。
  • 大雪山遭難の旅行業者「アミューズトラベル」業務停止期間に営業活動、観光庁から厳重注意を受ける - + C amp 4 +

    観観産第622号平成23年3月8日 アミューズトラベル株式会社 代表取締役社長 板井 克己 殿観光庁観光産業課長鈴 木 昭 久 厳 重 注 意 書 貴社は、旅行業法(昭和27年法律第239号)に基づき、観光庁長官より、平成22年12月16日から平成23年2月4日までの51日間、社営業所における旅行業務(既に締結された旅行契約の履行に必要な業務を除く。)についての業務の停止を命じられていたものであるが、貴社に対して立入検査を実施したところ、当該業務停止期間の開始前に社営業所で申込みを受けていた募集型企画旅行に関して、申込みを受けていれば既に締結された旅行契約の履行と同視し得るものと誤認し、これを取り扱っても業務停止命令の内容に反しないとして、当該業務停止期間中に、契約を成立させた上で、旅行者を当該募集型企画旅行に参加させていたことが判明した。 このような行為は、故意に業務停止命令の内容に

    大雪山遭難の旅行業者「アミューズトラベル」業務停止期間に営業活動、観光庁から厳重注意を受ける - + C amp 4 +
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    gureneko 2012/12/03
    アミューズトラベル社の悪業の一つ。
  • アミューズトラベルはウェブサイト閉鎖すべきでない - + C amp 4 +

    先週の万里の長城遭難事件直後から、御社ホームページ、支店ブログへのアクセスができなくなっている状態が続いています。 報道によれば、観光庁の自粛要請にもかかわらず事故直後の11月8日よりペルーの登山ツアーが出発しているそうです。 そのような状況下で、顧客への情報提供や広報機能を果たすホームページを閉鎖するべきではないのは明らかです。 社会的な責任を負った企業がやるべきことではありません。 事故に対する謝罪や今後のツアーの安全、現時点で御社が認識している事実関係を掲載すべきではないでしょうか。CSR以前の問題として、社会常識が疑われます。

    アミューズトラベルはウェブサイト閉鎖すべきでない - + C amp 4 +
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    gureneko 2012/12/03
    トムラウシ山遭難や数年後にその遭難事故の死者にハイキングツアーのパンフレットを臆面も無く郵送した事等で有名な、あのアミューズトラベル社の最近の悪業の一つ。これも、もっと世に知られるべき。
  • 恐るべき風習 - てぃーえすのメモ帳

    (周)舉稍遷并州刺史。 太原一郡、舊俗以介子推焚骸、有龍忌之禁。至其亡月、咸言神靈不樂舉火、由是士民毎冬中輒一月寒、莫敢煙爨、老小不堪、歳多死者。 舉既到州、乃作弔書以置子推之廟、言盛冬去火、殘損民命、非賢者之意、以宣示愚民、使還温。於是衆惑稍解、風俗頗革。 (『後漢書』列伝第五十一、周挙伝) 後漢のこと、太原郡では春秋時代の賢人介子推が焼死したという伝説から、彼が焼死した冬に一月の間火を使わないで生活するという壮絶な我慢比べ状態の風習があったという。 冬の寒い中で行われるため、老人や子供は何人も死んでいたようだ。 太原郡を管轄する并州刺史となった周挙はこの風習を止めさせたが、逆に言えばそれまではずっと続いていたらしい。 前漢末から後漢初めにかけての人物である桓譚の『新論』にも見えるので、おそらく前漢末には成立していた風習だったのだろう。というより、漢代以前、春秋戦国の時代から続いてい

    恐るべき風習 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/12/01
    怖ろしい風習だが、それを行政官が中止させるのは一種の宗教弾圧だなあ。とにかく怖ろしい。
  • 朱霊の領地と曹丕の計らい - てぃーえすのメモ帳

    九州春秋曰、初、清河季雍以鄃叛袁紹而降公孫瓚、瓚遣兵衛之。紹遣(朱)靈攻之。靈家在城中、瓚將靈母弟置城上、誘呼靈。靈望城涕泣曰「丈夫一出身與人、豈復顧家耶!」遂力戰拔之、生擒雍而靈家皆死。 (『三国志』巻十七、徐晃伝注引『九州春秋』) 後漢末・三国時代の曹操の将であった朱霊は、自分の故郷「鄃」を攻めることになり、母を始めとする家族を人質に取られたが降伏せず、結局その家族が殺されるハメになった。 魏書曰・・・(中略)・・・文帝即位、封(朱)靈鄃侯、増其戸邑。・・・(中略)・・・靈謝曰「高唐、宿所願。」於是更封高唐侯。 (『三国志』巻十七、徐晃伝注引『魏書』) その後、曹丕即位後に曹丕は恩賞として朱霊を列侯とすることになり、故郷である「鄃」の侯にしてやろうとしたが、朱霊は断った。 母を見殺しにした悲しみの地ということで嫌がったのかもしれないし、故郷にまだ残っていたであろう生き残った親戚や知り合

    朱霊の領地と曹丕の計らい - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/11/28
    朱霊への処遇。こういう曹丕像に最も近いのは北方三国志の曹丕かな?
  • 呂不韋の評価 - てぃーえすのメモ帳

    會日有蝕之、太中大夫蜀郡張匡、其人佞巧、上書願對近臣陳日蝕咎。下朝者左將軍丹等問匡・・・(中略)・・・對曰臣聞秦丞相呂不韋見王無子、意欲有秦國、即求好女以為、陰知其有身而獻之王、産始皇帝。・・・ (『漢書』巻八十二、王商伝) 前漢後半、成帝の時の丞相王商を張匡なる人物が批判する際の一節。 彼は王商が自分の娘を皇帝の後宮に入れたということについて、呂不韋と結び付けようとしたようだ。 呂不韋取邯鄲諸姫絶好善舞者與居、知有身。子楚從不韋飲、見而説之、因起為壽、請之。呂不韋怒、念業已破家為子楚、欲以釣奇、乃遂獻其姫。姫自匿有身、至大期時、生子政。子楚遂立姫為夫人。 (『史記』巻八十五、呂不韋列伝) だが、張匡によれば呂不韋は秦を我が物とするために計画的に自分の子を妊娠した寵姫を秦王に献上したかのように言われているが、『史記』で記されている事情とはずいぶん違っている。 『史記』列伝によれば、呂不韋

    呂不韋の評価 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/11/23
    「『漢書』にある張匡の発言は、王商を糾弾するために意図的に事実を捻じ曲げたのか、それとも当時は呂不韋に悪意を認める解釈が一般的だったのか。」
  • 役者絵「寿帝公関羽」 - 三国与太噺 season3

    今日の授業で見学した図書館おもしろいものがあったので。 こちらの浮世絵です。 画像はこちらの早稲田さんから引っ張らせていただきました。詳細がリンク先にあるのでご覧ください。また、こちらの成田屋さんのページにも紹介がありました。 いわゆる役者絵というものだそうで、こちらにある通り、歌舞伎十八番のひとつ「関羽」を描いたものです。嘉永五(1852)年のものとあります。 青龍刀、赤兎馬、美髯、そしてそれをしごく関羽独特の見得、と関公の特徴がしっかり描き込まれてると思います。 気になるところは、この画題の「寿帝公関羽」というところの「寿帝公」です。 ひとつには、これが「寿亭侯」の勘違いに基づいていることがわかります。*1 寿亭侯の勘違いが依然正されていなかったことを窺わせる資料と言えます。 ふたつには、その関羽の爵位「ジュテイコウ」の音に、間違った漢字を当てていることです。 正しくは上記のとおり「

    役者絵「寿帝公関羽」 - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2012/11/23
    寿帝公
  • 後漢〜三国・晋関係史籍散佚表1−2、正史類三国志編 - 雲子春秋

    昨日の企画の続き。 以下昨日の凡例コピペ。 用いるのは『隋書』・『旧唐書』・『新唐書』・『宋史』・『清史稿』の経籍志とか芸文志。 各王朝の時代の間隔が近すぎたり離れすぎたりしてるが史料の関係上しゃーなし。 『隋書経籍志詳攷』をもとにしつつ『清史稿』芸文志の記述をいれた。 『隋書経籍志詳攷』があればこの記事読む必要ない。 詳攷は『通志』とか『文献通考』とか、日の目録なんかからも収録しててもっと詳しい。 亡は散佚、×は記述無し、(輯)は輯(主に他の書物に引用されたのを集めたもの)をあらわす。 ×も(輯)も実質散佚ということになるものが多いと思われ。 今回は正史類の三国志編、ちなみに類別は隋書経籍志に拠る。 原書はもともとの巻数。 もとの巻数が書いてない場合は隋書の巻数に従ったので誤ってる場合があるかも。 書名 著者 原書 隋書 旧唐書 新唐書 宋史 清史稿 魏書 王沈 四十四巻 四十八巻

    後漢〜三国・晋関係史籍散佚表1−2、正史類三国志編 - 雲子春秋
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    gureneko 2012/11/22
    「陳寿の『三国志』が『旧唐書』・『新唐書』で『魏国志』・『蜀国志』・『呉国志』の3つに分けられ、さらに『旧唐書』では『魏国志』のみ正史類に入れられ、」
  • 向こう三軒両隣 - てぃーえすのメモ帳

    於是高祖召其姉為美人、以奮為中涓、受書謁、徙其家長安中戚里、以姉為美人故也。 【注】 索隠、小顏云「於上有姻戚者皆居之、故名其里為戚里。」長安記、戚里在城内。 (『史記』巻百三、万石張叔列伝) 漢の高祖は石奮の姉を自分の側室とし、石奮を側近の取り次ぎ係に任命し、その家族を長安内の「戚里」という区画に住まわせた。 「戚里」は彼らだけではなく、皇帝と姻戚関係となった人間を住まわせた区画であったそうな。 ということは、皇帝の寵を争う側室の家族同士が隣近所だったりしたということだろうか。 それは正直住むのが怖い。

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    gureneko 2012/11/20
    戚里
  • 忠臣蔵論争への挨拶 - 恐妻家の献立表blog

    風聞によると文楽は台が古くて現代人の鑑賞にたえないのだそうだが、やはり人形浄瑠璃の台として書かれた『仮名手忠臣蔵』(以下、忠臣蔵と略記)は今でも歌舞伎の人気演目である。 先日、作家の丸谷才一氏が亡くなったというニュースがあった。私は同氏の文学のよい読者ではなく、丸谷氏と言えばあの忠臣蔵論争しか思い出さない。丸谷氏と国文学者・諏訪春雄氏とのあいだで起きた論争である。 この忠臣蔵論争の発端は、1984年に発表された丸谷による評論『忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)』である。ごく簡単に言えば、丸谷はここで、民俗学や人類学を参照しながら、忠臣蔵とは御霊信仰を動機にしたカーニヴァル的演劇だと論じたのである。丸谷は同書の結論部分で「うんと大づかみに言へば、春と冬の対立と交替といふ自然界の循環の比喩の上に、将軍徳川綱吉あるいは徳川体制への呪ひを盛りつけたのが『仮名手忠臣蔵』の基の構造」だと自説

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    gureneko 2012/11/01
    丸谷才一vs諏訪春雄
  • 古典の日 - 恐妻家の献立表blog

    今朝、新聞を読んで、今日が古典の日だと知ってびっくりこいた。 古典の日を制定しようという運動があるのは知っていて、あれまあ錚々たる顔ぶれの先生方が集まってばかばかしいことに力を注ぐこともないだろうにと呆れた思いでいたが、まっさか当に法制化していたとは。 かつては「新人類」と呼ばれた私だって古典は嫌いではない。それどころか、働かずともっていけるなら、日がな一日、古典を読みふけっていたいと思うほどである。 たが、それとこれとは違う。 今日が古典の日とされたのは、『源氏物語』のことが『紫式部日記』に記された日だからということだが、それなら11月1日は『源氏物語』記念日ではないか。 なんだかサラダ記念日みたいだが、あちらの方はかわいらしくてよろしいが、古典の日はそうはいかない。 サラダ記念日は、 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 なのであって、「君」との関係だけに由来す

    古典の日 - 恐妻家の献立表blog
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    gureneko 2012/11/01
    古典の日問題。三権分立の建前を守るために議員立法は今後も存在して欲しいと思うが、現状では議員立法にこういう変なのが多いのも事実として認めざるを得ない。
  • 碑に生きた男 - 雲子春秋

    『隷釈』巻一、帝堯碑 (前略)故鉅鹿太守仲訢 故広宗長仲選 故呂長仲球 (後略) 帝堯碑(熹平四年:175年)の連名に、もとの鉅鹿太守仲訢、もとの広宗長仲選、もとの呂長仲球という人がいる。 この人たち、別の碑文にも連名している。 『隷釈』巻一、(成陽)霊台碑陰 司徒掾仲選孟高出銭千四百 鉅鹿太守仲訢伯海銭千四百 呂長仲球伯儀出銭三千二百 こちらは建寧五年(172年)のもので上の帝堯碑より古い。帝堯碑で故広宗長と書かれる仲選は当時まだ司徒掾だったようだ。 この碑で彼らの字がわかる。 仲選は孟高、仲訢は伯海、仲球は伯儀だ。 これは霊台碑の碑陰、ウラ側であり、オモテ側(碑陽)には彼らの経歴が僅かながら書いてある。 『隷釈』巻一、成陽霊台碑 仲訢伯海従右中郎将遷鉅鹿太守 仲球伯儀従太尉掾遷呂長 仲選孟高辟司徒府 仲訢は右中郎将から鉅鹿太守へ、仲球は太尉掾から呂長に、仲選は司徒府に辟招された。 彼ら

    碑に生きた男 - 雲子春秋
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    gureneko 2012/10/23
    無能なのに合法的に後世に名を残したい人には、寄付者の名と額とを木に書く団体ではなく石に掘る団体に、多額の寄付をする事を、お勧めする。
  • デミさん - てぃーえすのメモ帳

    七年冬十月、令列侯太夫人・夫人・諸侯王子及吏二千石無得擅徴捕。 【注】 如淳曰「列侯之稱夫人。列侯死、子復為列侯、乃得稱太夫人、子不為列侯不得稱也。」 (『漢書』巻四、文帝紀) 列侯の太夫人、夫人、諸侯王の子、吏二千石は勝手に召還・逮捕することはできない、という不逮捕特権。 ここに出てくる「太夫人」とは作画の関係で太目に見えてしまった魔法少女とは一切関係はなく、「列侯の母」という意味である。 王のを「后」、母を「太后」と呼ぶのと同じことだ。 『三国志』などでも一応出てくる用語なので憶えておいて損はないだろう。大して得もしないだろうけど。

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    gureneko 2012/10/23
    太夫人とは何か?
  • 『三国志演義』龐徳の兄嫁殺し - 三国与太噺 season3

    もうひとつ、龐徳の人柄を考える上ではこの件も興味深いです。 曹操への忠義を示すため「蜀の兄嫁気に入らないから殺したった。だから兄とはつながりは無い」と殺人告白する演義龐徳さんはかなりな危険人物。— 穀潰さん (@gokutubusi354) 9月 29, 2012 作中、龐徳は出陣前に、彼の兄である龐柔が蜀漢にいることを理由に、内応の可能性を疑われます。でも龐徳は、かつて自分は兄の嫁を殺しており、そのために以来関係は断絶していると弁明するんです。 このツイートはその件について驚かれているんですけど、僕もこれは見逃していたんでびっくりしました。 穀潰さんはこっちのまとめの方でも「武将では女性殺害理由としては最悪の部類に入ると思います」とも書いていますけど、じゃあ実際にその弁明を『三国志演義』の文で、「李卓吾」の方で見てみましょう。 某 漢中において主上(曹操)に投降してより、つねに厚恩を

    『三国志演義』龐徳の兄嫁殺し - 三国与太噺 season3
  • 益州と興平改元 - 雲子春秋

    194年、改元が行われ、年号は初平から興平となった。 しかし、どうも益州においてはその後もそのまま初平が使われていた可能性がある。 初平は四年までしかないのだが、益州の地方史『華陽国志』では初平六年という表現が出てくる。 『華陽国志』巻一、巴志 獻帝初平六年,征東中郎將安漢趙穎建議分巴為二郡。 これを初平元年の誤りであるという説もあるのだが、注によると劉昭『郡国志』に引かれた蜀漢の譙周による『巴記』でも初平六年となっているらしいし、趙潁の役職的にも初平六年=興平二年(195年)であるのが正しいように思われる。 『華陽国志』編纂の際に参照されたと思われる『巴記』の時点で初平六年という表現であるというのが興味深い。 ちなみに『華陽国志』には興平という表現はわずかに一例しかない。 しかもそれは文の順序が少し違うものの表現がほぼ『三国志』の劉焉伝と一緒であり、それを引用した可能性がある。 興平とい

    益州と興平改元 - 雲子春秋
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    gureneko 2012/10/16
    重要な事を最後にさらりと書いているので注意。
  • 丈八蛇矛の分かればな - 三国与太噺 season3

    蛇矛(だぼう、じゃぼう)は、柄が長く、先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため、そう呼ばれる矛。 ―wikipedia‐「蛇矛」の項 『三国志演義』張飛の得物が「穂先の曲がりくねった長矛」であることはもう言わずもがなであろうと思います。 ところが今回の『三国志研究』に載ってます上原究一先生の「丈八蛇矛の曲がりばな」は意外な論文でした。 そもそも語源的に「蛇矛」に蛇の意味はなく、"蛇"の字が音通によるものであることは先行研究で既に指摘されるところだそうです。 それが後に"蛇"の字に引きずられる形で「蛇のように曲がりくねった刃の矛」という意味に変わったのでしょうが、そこで歴代『三国志演義』の挿絵を見てみれば、実は張飛が「曲がりくねった矛」を使っている挿絵はほとんどないんだそうです。 上原先生の結論としては、『三国志演義』における「蛇矛」とは「一丈八尺ほどの柄の長い矛」という意味であり

    丈八蛇矛の分かればな - 三国与太噺 season3
    gureneko
    gureneko 2012/10/07
    張飛の武器に関する、意外な事実。