魏人鄭安平聞之,乃遂操范睢亡,伏匿,更名姓曰張祿(『史記』巻七十九 范睢蔡澤列傳) 後二歲,王稽為河東守,與諸侯通,坐法誅。而應侯日益以不懌(同上) 【集解】徐廣曰,「五十二年」 應侯因謝病請歸相印。昭王彊起應侯,應侯遂稱病甐(同上) 五十二年, 王稽張祿死(睡虎地秦簡『編年記』 昭王五十二年) 魏で屈辱的な扱い(スカトロプレイ)を受けた范睢(後に應侯)は、鄭安平に匿われて「張祿」と名を改めた。その後、公用で魏を訪れていた秦の謁者である王稽に従って秦に亡命。秦で范睢は宰相にまで昇りつめ、恩人である王稽を河東の守とした。しかし王稽は敵国と通じたため法律に従って誅殺され、范雎は日に日に不安を感じるようになる。また、蔡澤から商鞅や文種などの末路を聞いた范睢は病と称して宰相の印を返上することを請うた。昭王は許さなかったが、ついに病と称して引退した。 范睢の保身と秦の法律の厳しさを語る有名な話である