gurenekoのブックマーク (319)

  • 始皇帝の銅人 - 枕流亭ブログ

    秦の始皇帝の鋳造させた銅人12体は、金人・金狄人などとも別称され、400年あまりを閲した。 紀元前221年(始皇二十六年)、天下の兵器が咸陽に集められて、鐘鐻と金人12体が鋳造された(『史記』秦始皇紀)。これらは臨洮に現れたという長人をモデルとしたものである(『史記索隠』)。高さは五丈、足のサイズは六尺。みな夷狄の服を着ていた(『漢書』五行志)という。また高さは三丈、重さは小さなものでも千石あり、「皇帝二十六年初兼天下改諸侯為郡縣一法度同度量」の銘文を李斯が篆し、蒙恬が書した(『三輔黄図』巻一)ともいう。阿房宮の殿前に置かれ、漢代になって長楽宮の大夏殿の前に移された(『三輔旧事』)。董卓が銅人・鐘虡・五銖銭を破壊し、小銭・大五分を鋳造させた(『三国志』魏書董二袁劉伝)。董卓の破壊により銅人の残りは2体となり、清門の裏に移された。魏の明帝が洛陽に運ばせようとしたが、重みのため霸城で動かせな

    始皇帝の銅人 - 枕流亭ブログ
    gureneko
    gureneko 2012/03/07
    始皇帝の銅人が、その後どうなったかについて。
  • 光市事件の元少年が書いた「手紙」について2 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。

    地下生活者の手遊びさんからTBをいただいた。どうも拙ブログの「光市事件の元少年が書いた手紙について」というエントリーを引用いただいたらしい。ありがたいことである。 だがあれはかなり備忘録的なもので自分の中でまとめきれていなかったこともあり、ちょっと補足をしたい。そのあと別のところ*1でこの件について自分なりにまとめたものを改めてこちらにもアップする。参考になれば幸いである。 光市事件の報道は数多くされたが、その中でもかなりの心ある人の神経を逆撫でしたと思われるのが、少年が書いた「手紙」である。私も一読し、あまりに酷い内容に吐き気すら覚えた。だが、少し考えると気になる点も湧き上がってきた。まずどういう状況下で書かれたものか、書いた相手とはどれほど親しかったのか、またこんな不謹慎な内容の手紙を検閲した少年院側はどのような対応をとったのか、など。 少年の手紙について検討する前にいくつか弁護団の更

    光市事件の元少年が書いた「手紙」について2 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。
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    gureneko 2012/03/05
    光市事件関連報道で大々的に報じられた手紙についての労作。もっと早くに出会っておきたかったと思わされた記事の一つ。
  • 曹氏と何氏 - てぃーえすのメモ帳

    何晏七歳、明惠若神、魏武奇愛之。因晏在宮内、欲以為子。晏乃畫地令方、自處其中。人問其故?答曰「何氏之廬也」魏武知之、即遣還 (『世説新語』夙惠第十二) 魏の何晏さんは子供の頃から大変聡明だった。 あまりの聡明さに、何晏の母を側室としていた曹操さんは彼を自分の子にしようと思った。 しかしそれを知った何晏は地面に四角い線を引いてそこの中から出ないようになった。 何をしているのかと聞かれると「これは何氏の喪に服するための庵です」と答えたのだった。 曹操はそれを聞くと、彼を自分の子供にするのを止めて自分の後宮から帰したという。 つまり、曹操は何晏に曹氏を名乗らせて自分の息子として扱おうとしたが、何晏はあくまでも何氏(=実の父親)のために喪に服するという態度を示して曹氏になることを拒否したということだ。 曹操は自分の側室の連れ子を異姓養子にしようとしていたということになる。 各種史書によればこの時代

    曹氏と何氏 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/02/29
    曹操も異姓養子を迎えようとしていた件。何晏のA.T.フィールドの件。
  • コジェーブの日本についての注についてのメモ - 恐妻家の献立表blog

    ある人に尋ねられて作成したメモ。長いのでお暇な方だけお目通しください。 概要 アレクサンドル・コジェーブのヘーゲル講義(第二版、原著1962)が『ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』として日語訳されたのが1987年。同書に、歴史の終焉をめぐって、日について述べた長い注がある。そこでコジェーブは、日社会のスノビズムを歴史の終りの後の生活様式として、アメリカ以上に進んでいると評価し、西洋人はやがて日化するだろうと述べた。このことは専門家の間では知られていたが、それが広く話題にされるようになったのは、1989年に、ブッシュ(父)政権下のアメリカ国務省の官僚、フランシス・フクヤマの論文「歴史は終わったのか」が紹介されてからのことだった。この論文でフクヤマは、コジェーブのヘーゲル解釈に依拠しながら、イデオロギー対立は自由主義の勝利に終わり、政治理念をめぐる歴史の運動は終焉を迎える、と主張

    コジェーブの日本についての注についてのメモ - 恐妻家の献立表blog
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    gureneko 2012/02/23
    労作。今後も何度も読む予定。
  • 孫秀と開府 - てぃーえすのメモ帳

    伏波將軍孫秀以亡國支庶、府望不顯、中華人士恥為掾屬、以(陶)侃寒宦、召為舍人。 (『晋書』巻六十六、陶侃伝) 呉が平定された後の晋王朝。 それまで驃騎将軍という高位だった呉の亡命皇族孫秀は伏波将軍となっていたが、特に開府を許されていた(『三国志』注引『晋諸公賛』)。 しかし、上に挙げたように彼の府は中原の名士たちからはブラック扱いされ、呉出身でかつ県吏という低い身分の出であった陶侃のような者しか召し抱えることが出来なかったということらしい。 晋王朝で呉の人間がどういう扱いだったのか、その一端が垣間見える。 まあ当然と言えば当然の事なんだろうけれど。

    孫秀と開府 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2012/02/11
    呉平定後の伏波将軍府の内情。
  • 柴田錬三郎『三国志』(昭和27年) - 三国与太噺 season3

    柴田錬三郎と言えばいわゆる「柴錬三国志」こと『英雄ここにあり』でよく知られていますが、柴田先生はそれ以前から児童向け、軽い読み物としてダイジェスト的な「三国志」小説をいくつか書かれています。書はその中でもかなり初期に書かれたもののようです。 何と言っても文庫一冊にまとめておりますから、かなり大胆なカットと単純化をしています。その切り方などもだいぶ独創的で、子供向けとは言えどこれはこれで新鮮で楽しめます。 オススメ(´・ω・)つ 三国志―柴錬痛快文庫 (講談社文庫) 作者: 柴田錬三郎出版社/メーカー: 講談社発売日: 2002/03メディア: 文庫 クリック: 7回この商品を含むブログを見る ところで以前に『英雄ここにあり』を紹介した時に、柴錬先生が『吉川三国志』に強く影響されていたことに触れました。 「三国与太噺」-柴田錬三郎『柴錬三国志』(昭和41年) 書も同様と言いますか、依拠

    柴田錬三郎『三国志』(昭和27年) - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2012/01/22
    これが実は吉川版のダイジェストだった件。
  • 張楊の字について - 三国与太噺 season3

    どうでもいいことだから、これまで誰からも指摘されなかったのでしょうが・・・(;・д・) 張楊、字は稚叔、雲中の人なり。(『三国志』張楊伝) この通り張楊の字は「稚叔」であると『三国志』にはあります。 だがコイツを見てくれ。 ウィキペディアの「張楊」は「雅叔」としているんだ。 そしてニコニコ大百科も「雅叔」だ。 My三国志も「雅叔」だ! コーエーも大戦も「雅叔」だッ! ちくまもッ、「人物事典」もッ! ぜんぶ『雅叔』だあああ―――――ッ!

    張楊の字について - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2012/01/15
    張楊の字が、日本では余りに広く誤解されている件。
  • 晋文王と晋宣王 - 三国与太噺 season3

    文王っていいなぁ ( ゚д゚)ホスィ… あいつから貰うかぁ ( ゚д゚)                  (文 ・ω・) こちらの、てぃーえすのワードパッド「烈祖と忠武侯」で言われています通り、初めは文侯と諡されていた司馬懿でしたけど、それでは魏文帝に不遜だと司馬昭が上奏したため、宣文侯と改められました。 それが後に司馬昭が晋王になるとまた諡号が改められたんですけど、 文王晉王の號を受くるに至り、魏帝又追命して宣文を宣王と為し、忠武を景王と為す。(『晋書』礼志中) 司馬懿に贈られたのは「宣王」。 文侯→宣文侯→宣王。 ってカタチでして、王位を追贈されるにあたって「宣文」の二字から削られたのは、昔から持っていた「文」の字の方でした。別に元通りにして「文王」でも良かったと思うんですけどねぇ。 そいで、このすぐ後に死んだ司馬昭が文王って諡されているんですよ。 なんか、司馬昭に文王を横取りされち

    晋文王と晋宣王 - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2012/01/13
    晋の帝室である司馬一族において、創業者の次世代が、自身が「文」や「武」と諡されるために行った操作。文字による説明を最小限にして、絵文字を上手に動員した記事。そこはかとない恐怖を味わえる。
  • 最強攻撃、相手は死ぬ - 雲子春秋

    『古今図書集成』經濟彙編戎政典 攻守諸器部 彙考 《煮人糞》 煮人糞至滾,臨時用小薄罐盛,以竹葉縛罐口,約之以擲,罐破糞出,著人肉爛痛至死。 煮人糞:その名の通り人糞を煮て、小さな薄い器に入れ、竹の葉でふたをする。 これを投げると、器が破裂しうんこが飛び散る。 当たるとその人は肉がただれて死に至る。らしい。 うんこに気をつけよう。 新年一発目から文字通り糞記事。 今年もこんな感じでがんばっていきますので応援よろしくお願いします。

    最強攻撃、相手は死ぬ - 雲子春秋
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    gureneko 2012/01/05
    怖ろしい・・・。
  • その後の晋帝 - 三国与太噺 season3

    (元熙二年)劉裕(恭)帝を以て零陵王と為し、秣陵に居せしむ……、裕は后兄叔度をして后に有間を請わしめ、兵人垣を踰えて入り、内房に帝を弒せしむ。時年三十六。諡して恭皇帝。(『晋書』恭皇帝) 宋の武帝劉裕は、曹丕・司馬炎の例に従い、位を譲った恭帝司馬徳文を零陵王に封じ、王朝の賓客とします。 ところがその翌年、劉裕は零陵王を弑虐してしまいます。禅譲したはずの先帝を殺すという、悪しき習わしの始まりですね。 ただ意外だったんですけど、先帝は殺す、殺しはするけど二王の後はちゃんと維持させるんですね。零陵王司馬氏は一応、二王朝を通じて存続していました。 (元嘉二十五年)六月庚戌、零陵王司馬元瑜薨ず。(『宋書』文帝紀) (泰始四年正月)乙亥、零陵王司馬勗薨ず。(『宋書』明帝紀) (永明八年二月)壬辰、零陵王司馬藥師薨ず。(『南齊書』武帝紀) 薨去記事ばっかで面白くないですが(´・ω・`) 殺された恭帝の次

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    gureneko 2011/12/28
    最後の晋帝は禅譲後に殺されたが、実はその家は王家として続いたという話。
  • 孔丘先生と子路と塩辛 - てぃーえすのメモ帳

    俗説、雷鳴不得作醬、雷已發聲作醬、令人腹内雷鳴。謹案、子路感雷精而生、尚剛好勇、死、衛人醢之、孔子覆醢、毎聞雷、心惻怛耳。 (応劭『風俗通』佚文) 後漢末当時の俗説に「雷が鳴ったら醤(しおから)を作ってはいけない。作るとべた人のお腹でゴロゴロと雷が鳴る」というのがあったそうだ。 応劭先生によれば、孔丘先生の第一の弟子である子路は雷の精に感応して誕生した人で、殺されて塩辛にされると孔丘先生は怒りのあまりちゃぶ台をひっくり返し、また雷の音を聞くたびに子路と塩辛を思い出して悲しくなったのだそうだ。 どうやら、孔丘先生の悲しみこそがお腹ゴロゴロの原因だということのようだ。 そのへんの理屈はよくわからんが。

    孔丘先生と子路と塩辛 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2011/12/17
    何となく世界一偉い気がする自分の悲しみを無視して雷の最中に作られた悪しき塩辛を、敢えて食するという非道を為す後世の庶民を、祟りで戒める孔丘。
  • 中漢 - てぃーえすのメモ帳

    袁紹忠臣説はちょっと休む。 あと1回か2回はやると思う*1。 今回は我らが風俗通応劭先生関連。 初、父(應)奉為司隸時、並下諸官府郡國、各上前人像贊、劭乃連綴其名、録為状人紀。又論當時行事、著中漢輯序。撰風俗通、以辯物類名號、釋時俗嫌疑。雖不典、後世服其洽聞。凡所著述百三十六篇。又集解漢書、皆傳于時。 (『後漢書』列伝第三十八、応劭伝) 応劭先生の著作として「状人紀」、「中漢輯序」、「風俗通」、「漢書集解」があったという。 「中漢輯序」ということは、応劭先生はいわゆる後漢のことを「中漢」と呼んだらしい*2。 どこまでを「中漢」と区分したのか少々気になるところだ。 当時の皇帝劉協(献帝)を含んだのか、それとも含まなかったのか。あるいは奥田民生の「マシマロ」のようにタイトルにあまり深い意味はなかったのか。 応劭先生は最終的に袁紹のところに居たというのもあり、ちょっと気になった次第。 *1:私は

    中漢 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2011/12/07
    「応劭先生はいわゆる後漢のことを「中漢」と呼んだらしい」
  • 曹操政権における丞相(司空)長史 - 雲子春秋

    三国志研究会会誌『鶏肋譚』に載せたものをほぼそのままあげてみる。 長史という官職がある。実は大変重要な官職であるのだが、いまいち知名度が低い。 長史は現代日でいうところの省庁事務次官クラス。大臣を除いた省庁のトップである。さらにいえば丞相長史は内閣府の事務次官というわけだ。この論考ではその役割を確認した上でその重要性を説く。それとともに丞相長史王必の知名度を上げていきたいと思う。どちらかというと後者を目的としている。 まず、漢の官職についての書物『漢旧儀』には長史について次のようにある。 『北堂書鈔』巻第六十八 設官部二十の引く『漢旧儀』 太尉・司徒長史、秩比二千石、号為「毗佐三台、助鼎和味」。其遷也、多拠卿校也。 訳:太尉・司徒長史の秩禄は二千石、三台(三公:太尉・司徒・司空)を補佐し、三公の調和を助ける。その任免は普通、大臣の考査によって行われた。 ここで挙げられている太尉・司徒長史

    曹操政権における丞相(司空)長史 - 雲子春秋
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    gureneko 2011/12/06
    曹操の長史達。
  • 蜀の諡法 - 思いて学ばざれば

    『晋書』景帝紀 文帝が上表して謙譲した。「わたくしの亡き父は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖がつねづね区別をしていたからでございます。いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」詔勅により許され、忠武と諡された。 魏晋では「文」「武」といった諡号では二祖(曹操と曹丕)と同じであるのは恐れ多く、蕭何らと同じく二字の諡号にすることが「譲」と考えられていた。 ところが蜀漢では、太祖劉備が「昭烈」、諸葛亮が「忠武」、関羽が「壮繆」であり、以下の張飛が「桓」、馬超が「威」、黄忠が「剛」、龐統が「靖」、法

    蜀の諡法 - 思いて学ばざれば
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    gureneko 2011/11/28
    蜀の諡法の特徴を魏のそれと比較した記事。この法則に則ると趙雲が高評価されていた事になるという部分が面白かった。
  • 黄巾に負けた王様たち - 三国与太噺 season3

    ・安平国の場合 子續立.中平元年,黄巾賊起,為所劫質,囚于廣宗.賊平復國.其年秋,坐不道被誅.立三十四年,國除(『後漢書』樂成靖王黨列伝) 明帝系統の安平王劉続。安平国は冀州です。 捕虜になるものの黄巾平定後に帰還します。が、その年のうちに大逆不道ということで誅されました。その顛末は李固伝の李燮の箇所に書かれています。 ・下邳国の場合 子愍王意嗣.陽嘉元年,封意弟八人為鄉﹑亭侯.中平元年,意遭黄巾,弃國走.賊平復國,數月薨.立五十七年,年九十.(『後漢書』下邳惠王衍列伝) 明帝系統の下邳王劉意。下邳国は徐州ですね。 こちらは国を捨てて逃亡してます。平定後帰国しますが数ヵ月後に死去。それがなんと九十歳のおじいちゃん!九十まで長生きしてまさかこんな一大イベントに見舞われるなんて、、、 そういえば徐州黄巾といえば、陶謙がこの処理にあたっていませんでしたっけどうでしたっけ? ・常山国の場合 子翬嗣

    黄巾に負けた王様たち - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2011/11/24
    後漢諸王vs黄巾賊
  • 麻生太郎さんとカップ麺、漢字テスト - 思いて学ばざれば

    たびたび話題になるわりに、きちんと議事録が参照されていないのではないかと思われる言及事例がしばしば見られ、また国会会議録検索システムが個別の記事にパーマリンクを用意していないので、ここに転載しておこうと思います。 カップ麺について 当時マスメディアでは、麻生太郎さんの「庶民感覚」を疑問視する報道がさかんに流れていました。そうした報道がなされていたなかで、民主党の牧山ひろえ議員がカップ麺の価格を尋ね、麻生太郎さんが平均価格よりかなり高く返答したことで、またしてもメディアは麻生さんの「庶民感覚」の欠如をことあげした、という経緯があります。そうした報道を受けて、牧山さんに対して、「くだらぬ質問をするな」といった批判の声も多々見られました。 しかし議事録を参照すると、牧山さんは、麻生さんの「庶民感覚」を問題視しているわけではないのです。 平成20年10月28日 参議院 外交防衛委員会 165 ○牧

    麻生太郎さんとカップ麺、漢字テスト - 思いて学ばざれば
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    gureneko 2011/11/17
    麻生政権時代のカップ麺事件と漢字テスト事件の真相。勉強になりました。
  • 柴田錬三郎『柴錬三国志』(昭和41年) - 三国与太噺 season3

    卒論の没ネタを横流し(´・ω・`) 正式なタイトルは『英雄ここにあり』。昭和41年から43年まで連載。*1 いわゆる『柴錬三国志』ですね。『秘』や『北方』などと並んで現代でも割とポピュラーな「三国志小説」だと思います。 ストーリーは桃園結義から出師の表までの「演義準拠」。独自の表現、解釈、簡略化など創意が加えられていますが、全体のストーリーやエピソードは『三国演義』を逸脱するものではない。これは『吉川三国志』と同様ですね。 しかし一言で「演義準拠」と言っても、実は結構多彩な傾向を持っていたんです。 そこで『柴錬三国志』と、旧来の「毛宗崗」『通俗三国志』『吉川三国志』とを比較してみました。『柴錬』と同様の特徴を持てば○を、違ければ×です。 この結果が面白いのは、第一に「毛宗崗」を種としてかなり使っている点です。一覧表の1・4・13〜20ですが、全体的に作品の後半に従ってその影響が濃く

    柴田錬三郎『柴錬三国志』(昭和41年) - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2011/11/14
    柴錬三国志の種本の分析をした労作。中には吉川起源のエピソードまで・・・。
  • 県と郡 - てぃーえすのメモ帳

    周制、天子方千里、分為百縣、縣有四郡。郡者、群也。故左氏傳曰「上大夫受縣、下大夫受郡。」 至始皇初、置三十六郡以監縣。縣、平也。 (応劭『風俗通』佚文) 『風俗通』によれば周制では県の下に郡がある、という関係だったのだそうな。 今まで、近現代日で県の中の行政区分として郡がある、つまり県の下に郡があるという関係になっているのが「秦漢以降の中国の制度と逆じゃないか」と不思議に思っていたんだが、周制に基づいていたんだな。

    県と郡 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2011/11/13
    近代日本の県郡関係は、『風俗通』佚文にある周制と同じ。
  • 廖化、長寿の謎について - 三国与太噺 season3

    廖化は元黄巾賊である。 廖化は蜀漢の滅亡後に死ぬ。 黄巾の乱で20才ほどだとしたら、没年は100才! この謎に対してネットでは、以下の「三国志博物館集解」さんの様に、廖化が黄巾賊という設定が演義の創作であることを指摘、よって廖化の長寿も演義の創作にすぎないとの結論を出している所が多いと思います。 http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50017218.html でもでも、どうせ演義のことだからそんな無茶な生没年になっちゃったんでしょ?、みたいな見方はよくないと思うんです。『三国志演義』はとってもリアリティ溢れる小説なんですよ(゚∀゚) 廖化が初登場する第二十七回を見ますと、廖化が黄色の頭巾を巻いている様子(黄巾錦衣)と、関羽が廖化を黄巾賊だと見ている発言(関公尋思「此人終是黄巾餘黨,未可作伴」)とがあります。廖化黄巾賊はこのふたつの描写に

    廖化、長寿の謎について - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2011/11/07
    演義における廖化の設定が、別段荒唐無稽ではない事の証明。お見事!
  • 侍御史の冠 - てぃーえすのメモ帳

    侍御史、周官也、為柱下史、冠法冠。一曰柱後、以鐵為柱。或説古有獬豸獸、觸邪佞、故執憲者以其角形為冠耳。余覽秦事云、始皇滅楚、以其君冠賜御史。漢興襲秦、因而不改。 (応劭『漢官儀』上) 侍御史の冠は戦国時代の楚の君主の冠だったものを秦が楚を征服した時に御史に下賜したのが始まりなのだという。 侍中の冠も趙の冠を下賜したという話があった。 秦は征服した国の衣冠を自分の官僚組織に取り込むという風習でもあったのだろうか。

    侍御史の冠 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2011/10/26
    征服した国の衣冠を自分の官僚組織に取り込むという風習