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  • 漢の漢たちを語る22「木綿のハンカチーフ」:蘇武 - てぃーえすのメモ帳

    漢の使節団として北の異民族匈奴へ向かうが、情勢が変わり匈奴に拘束され、そのまま監禁生活を送る羽目になること19年・・・。 蘇武のことかって? そうです。 漢の武帝の時代、蘇武は匈奴への使者となったが、情勢が変わり匈奴から帰ることができず延々と抑留されることとなった。 匈奴単于になんだか見込まれてしまった蘇武は単于からの度重なる降伏勧告の誘惑をはねのけ、彼の心をくじこうとする策略にも耐えた。 それが19年にも及び、最後には漢への帰還を果たし、彼はその忠節を讃えられた・・・というのは割と知られている話であるから詳しくは語らない。 今回取り上げるのは、その忠節の裏で彼が失ったものについてである。 久之、單于使(李)陵至海上、為(蘇)武置酒設樂、因謂武曰「單于聞陵與子卿素厚、故使陵來説足下、虚心欲相待。終不得歸漢、空自苦亡人之地、信義安所見乎?前長君為奉車、從至雍棫陽宮、扶輦下除、觸柱折轅、劾大不

    漢の漢たちを語る22「木綿のハンカチーフ」:蘇武 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2014/01/21
    匈奴の捕虜時代の蘇武に現地妻がいたという話。蘇武を忠誠を尽くしているのにそれを理解しない妻に逃げられた可哀想な男として把握するのは男性中心主義的であるという事が解る。
  • 『忍耐の法』公式サイトが病気 - 幸福の観測所

    twitterを見ていたら、 幸福の科学「忍耐の法 特設ページ」に4のドラマがあって、それぞれに「忍耐編」と「解決編」があるんだけど、どの「解決編」でも主人公の問題が何一つ解決していないところがすごい。「中間管理職」編に隠れキャラ(里村英一氏)アリ。 http://t.co/IjgD6o67af— やや日刊カルト新聞社主筆 (@daily_cult) 2014, 1月 12 こんな指摘がありました。 動画の他にも「忍耐体験(http://nintai.irhpress.co.jp/experience/)」なるページがあり、そちらもなかなか病的だったので、幾つかピックアップしてご紹介します。 モテなかった高校時代…… | 忍耐の法 特設ページ 高校で3回告白して、3回フラれました。 まさに忍耐。 時が過ぎれば、どうってことのない小さな出来事。 その時はもう「人生終わった」と気で思いまし

    『忍耐の法』公式サイトが病気 - 幸福の観測所
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    gureneko 2014/01/15
    嫁の口臭等への忍耐が出来ずに離婚して愚痴を吐きまくっているオッサンよりかは若干忍耐力が高い連中の見本市。
  • 都亭侯×2 - てぃーえすのメモ帳

    徐晃字公明、河東楊人也。為郡吏、從車騎將軍楊奉討賊有功、拜騎都尉。李傕・郭艴之亂長安也、晃説奉、令與天子還洛陽、奉從其計。天子渡河至安邑、封晃都亭侯。 (『三国志』巻十七、徐晃伝) 又與史渙撃袁紹運車於故市、功最多、封都亭侯。 (『三国志』巻十七、徐晃伝) 徐晃は元白波の楊奉に従っており、楊奉に李傕・郭艴らから離反し皇帝を洛陽に戻すよう進言して都亭侯の地位を得たという。 だがその後曹操の元に降った徐晃は、袁紹との戦いの功績で都亭侯の地位を得たとされている。 これはどちらかの記述に誤りがあるのか、それとも最初の都亭侯はどこかの段階でボッシュートされたということなのか。 どっちだろうか。

    都亭侯×2 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2014/01/08
    徐晃の都亭侯就任をめぐる謎にせまった。
  • 列侯の国号 - てぃーえすのメモ帳

    (何)武更為大司空、封氾郷侯、邑千戸。氾郷在琅邪不其。哀帝初即位、襃賞大臣、更以南陽犫之博望郷為氾郷侯國、筯邑千戸。 (『漢書』巻八十六、何武伝) 前漢末期の何武は成帝の時に御史大夫から大司空となり、そこで「氾郷侯」となった。 どうやら、「氾郷侯」は琅邪郡不其県の「氾郷」であったものと思われる。 そして哀帝が即位すると、大臣たちを褒賞する一環として、何武の「氾郷侯」の領地をその琅邪郡不其県から南陽郡犫県の「博望郷」に移したが、その「氾郷侯」という国号はそのままにしたという。 つまり「博望郷」は突然「氾郷」になったということになる。 前漢初期の韓王信などもそうだったが、王や侯が国替えをしても国号はそのままにする、という場合があったようだ。

    列侯の国号 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2014/01/03
    前漢において、転封になっても国号が変わらない事があるという事例。
  • 単純所持禁止 - てぃーえすのメモ帳

    轉為武徳侯庶子。二十二年、坐其宗人吉等起事被收。先是科禁内學及兵書、而(吉)茂皆有、匿不送官。及其被收、不知當坐等、顧謂其左右曰「我坐書也。」 (『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』) 『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。 だが吉茂はそれを隠し持っていた。 吉茂の遠縁である吉が反乱を起こすと、連座して当時武徳侯庶子だったという吉茂も捕縛されたが、事情を良く理解していなかった吉茂は「私は書物を隠していたから捕まった」と言ったのだと言う。 当時、兵書の私的所持がご法度だったらしいというのはなかなか興味深い。 「官に送らなかった」とあるので、単に禁止するというよりは兵書の利用を全て公的機関で統制しようということだったのかもしれない。

    単純所持禁止 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2013/11/26
    「『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。」
  • 独断専行か否か - てぃーえすのメモ帳

    永平中、奉車都尉竇固出撃匈奴、騎都尉秦彭為副。彭在別屯而輒以法斬人、固奏彭專擅、請誅之。顯宗乃引公卿朝臣平其罪科。(郭)躬以明法律、召入議。議者皆然固奏、躬獨曰「於法、彭得斬之。」帝曰「軍征、校尉一統於督。彭既無斧鉞、可得專殺人乎?」躬對曰「一統於督者、謂在部曲也。今彭專軍別將、有異於此。兵事呼吸、不容先關督帥。且漢制棨戟即為斧鉞、於法不合罪。」帝從躬議。 (『後漢書』列伝第三十六、郭躬伝) 後漢明帝の時代。 匈奴攻撃に出た奉車都尉竇固の副となった騎都尉秦彭は、自分の軍営内で法に従って人を斬刑に処した。 だが奉車都尉竇固はこれを秦彭の独断専行の越権行為として処断することを朝廷へ願い出た。 明帝は群臣を集めて議論し、その中には法律に明るい潁川陽翟の人郭躬も加わっていた。 皆が「竇固が正しい。斧鉞も無いのに独断で人を殺すことはできない」と言う中、郭躬だけは秦彭の行動は問題が無いと言う。 彼によ

    独断専行か否か - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2013/11/18
    漢の『軍法判例百選』に載せたい記事の一つ。
  • 曹一族のY染色体 - 枕流亭ブログ

    復旦大学が中国全土の曹姓・夏侯姓・操姓の男性のY染色体を調べて、遺伝学的に曹操の血統に迫ったというニュース。 復旦大学の李輝(復旦大学現代人類学教育部重点実験室)のDNA分析により、曹操の子孫を称する曹氏のうち6家族から珍しいO2*-M268型の変異が見つかったということです。合わせて亳州の曹氏宗族墓群のひとつ、元宝坑1号墓の遺骨からも同じくO2*-M268型の変異が見られたそうです。 復旦大学の韓昇(復旦大学歴史系教授、中国魏晋南北朝史学会副会長)が結論するところでは、 1.曹操は曹参の後裔ではない。 2.曹操の子孫が改姓したと伝えられる操姓の人々と曹一族とのあいだには遺伝的には関係がない。 3.現在の夏侯氏と曹操の家族のあいだも遺伝的に一致しない。 ということです。操氏・夏侯氏の話は分かるのですが、「曹操は曹参の後裔ではない」がどこから導き出されたのか、今ひとつ判然としないところです。

    曹一族のY染色体 - 枕流亭ブログ
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    gureneko 2013/11/13
    第一報に興奮し過ぎてしまいました。この記事の御陰で頭が随分冷えました。
  • 曹操遺伝子 - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 韓暁蓉、程蘇紅「復旦100%確定曹操家族DNA」『東方早報』2013年11月12日 2009年12月に河南省安陽で曹操の墓と推定される古墳が発見されたが*2、上海の復旦大学では曹操一族のDNA分析を進めてきた。全中国の「曹」姓、「夏侯」姓、「操」姓の男性の血液サンプルを収集する一方で、歴史学者の韓昇氏は285の「曹姓家譜」を調査し、信憑性の高い8つの家譜(宗族)を抽出した。DNA分析の結果、8つのうち6宗族からは曹操の同時代に被る1800〜2000年前に発生したとされる同一のY染色体の突然変異(SNP)が発見された。さらに家譜には曹操の末裔であるという記載はないが同一のSNPを共有する3宗族が発見され、確認された曹操の末裔は9宗族になる。安徽省績渓、安徽省舒城、安徽省亳州、江蘇省海門、広東省徐聞、江蘇省塩城、山東省乳山、遼寧省東港、遼寧省鉄嶺。 安徽省亳州は曹操の故郷で、曹操の祖

    曹操遺伝子 - Living, Loving, Thinking, Again
    gureneko
    gureneko 2013/11/13
    DNA検査で、曹嵩の夏侯姓出身説が否定された。「操」一族と曹操の関係も否定。いやはや、凄い時代になったものだ。
  • 信者や元信者の「叫び」が聞きたい - 幸福の観測所

    gureneko
    gureneko 2013/11/04
    不満を言わないのは、確かに格好良い。だから格好をつけたいナルシストは不満を言わない。こうした格好をつけるために悪を告発しないという自分勝手もまた、社会への背信という一つの悪である。
  • 東安郡 - てぃーえすのメモ帳

    是時丹楊・呉・會山民復為寇賊、攻沒屬縣、(孫)權分三郡險地為東安郡、(全)蒴領太守。至、明賞罰、招誘降附、數年中、得萬餘人。權召蒴還牛渚、罷東安郡。 (『三国志』巻六十、全蒴伝) 孫権は呉の領内の呉・会稽方面に自分に従わない賊が多かったため、そういった賊が根城にする険阻な土地を纏めて一つの「東安郡」という郡にしてしまい、その郡を娘婿である全蒴に任せて賊の討伐・鎮撫をやらせることにした。 数年後、東安郡での賊討伐や懐柔が上手くいったため、東安郡を解体して元に戻したという。 郡がまたがると軍事行動にしろ懐柔にしろ面倒になるから、一時的に一つにして風通しを良くしようということなのだろう。 廃止前提の一時的な郡を設立(賊の鎮圧ができなければ延々続いたんだろうけど)という事例もあるんだなあ。 ちなみに晋は全然違う場所に東安郡を作っている。

    東安郡 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2013/11/01
    「呉・会稽方面に自分に従わない賊が多かったため、そういった賊が根城にする険阻な土地を纏めて一つの「東安郡」という郡にしてしまい、その郡を娘婿である全琮に任せて賊の討伐・鎮撫をやらせることにした。」
  • 「四谷怪談」を読む(はじめに) - 恐妻家の献立表blog

    「「四谷怪談」を読む(一)」をこのブログに掲載したら、さっそくコメントを寄せてくださった方が「四谷怪談というと、すぐ歌舞伎や映画を思い出します」と書かれているのを読んで、アッしまった!と気づいた。つまり私は、四谷怪談といえばすぐ歌舞伎や映画を思い出せる人にしか通用しない書き方をしている。だから広坂の怪談はわかりづらいと苦情を言われることになるのだ。そういえば、共著者の横山泰子先生が紆余曲折のあった書の刊行を祝ってくださった言葉のなかで「画期的な出版です。日で十人くらいは大喜びしている人がきっといる」と仰っていたことをも思い出した。 「日で十人って、つまり世界で十人くらいにしか通じないってことですか?」 「いえ、海外にも南北の研究者はいるでしょうから、十一人くらい(笑)」 そこで、これではいけない、と、かつての没原稿を引っぱり出すことにした。1998年に執筆してお蔵入りしたものだから情

    「四谷怪談」を読む(はじめに) - 恐妻家の献立表blog
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    gureneko 2013/10/13
    全てはここから始まった。
  • オックスフォード白熱教室第一回「素数の音楽を聴け」の感想 - 幸福の観測所

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    gureneko 2013/10/06
    幸福の科学では文系が重んじられ、「文転の秘法」とかいう祈願まであるらしい。
  • 章邯のハマり手 - てぃーえすのメモ帳

    當是時、燕・齊・楚聞趙急、皆來救。張敖亦北收代兵、得萬餘人、來、皆壁餘旁、未敢撃秦。 (『史記』巻八十九、張耳陳余列伝) 先日も話題にしたが、秦末に趙を復興させた陳余と張耳は章邯率いる秦軍に攻められることとなり、張耳は鉅鹿に籠城するも秦に攻囲されて完全に孤立した。 陳余や楚などの救援軍は秦軍に当たるのを避けて攻囲の外側から見守るばかりであったという。 この状況について考えてみる。 思えば、この戦場だけで見れば、このまま秦に張耳が討たれるのを待っていても、陳余たちは完全にジリ貧である。 今度は陳余や楚や斉が攻撃される番に決まっているからだ。 張耳攻囲に兵を取られる今が撃退の最後のチャンスかもしれないではないか。 援軍でしかない楚はともかく、国が戦場になっている陳余まで傍観するというのは不思議な感じもする。 ではなぜ各国は傍観を決め込んだのか。 それはやはり、趙にしろ楚にしろ秦国へ兵を派遣

    章邯のハマり手 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2013/10/06
    鉅鹿を包囲した章邯軍に対し、諸国の援軍が攻撃を仕掛けなかった理由の推察。非常に説得力があります。
  • 越か趙か - てぃーえすのメモ帳

    以越將從起薛、至霸上、以樓煩將入漢、定三秦、屬周呂侯、破龍且彭城、為大司馬、破項籍葉、為將軍、忠臣、侯、七千八百戸。 (『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、陽都敬侯丁復) 以趙將從起鄴、至霸上、為樓煩將入漢、定三秦、別降翟王、屬悼武王、殺龍且彭城、為大司馬、破羽軍葉、拜為將軍、忠臣、侯、七千八百戸。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、陽都) 漢の高祖の功臣の中でも有力な者の一人、丁復。 彼の事績はあまり記録が無い上に、『漢書』と『史記』では重大な違いがある。 『漢書』ではその出自を「越将」、『史記』では「趙将」としているのだ。 丁夫人・雒陽虞初等以方祠詛匈奴、大宛焉。 【注】 應劭曰「 丁夫人、其先丁復、越人、封陽都侯。夫人其後、以詛軍為功。」韋昭曰「丁、姓。夫人、名也。」 (『漢書』巻二十五下、郊祀志下) この点について、どうやらあの風俗通こと応劭先生は丁復を越の人間として解釈していた

    越か趙か - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2013/09/29
    丁復について。 「『漢書』ではその出自を「越将」、『史記』では「趙将」としているのだ。」
  • 毛宗崗本における華佗の最期 - 三国与太噺 season3

    以下は立間祥介訳『三国志演義』第七十八回の一段落である。 頭痛に悩まされる曹操は、神医と称される華佗を辟紹して治療にあたらせる。以下を読んで問いに答えよ。 華佗の言うには、 「大王(曹操)の頭痛は風がもとで起こったものでございます。病根が頭の中にあるゆえ、風涎(病原体)を出すことができず、薬湯をもっては癒すことはできませぬ。それがしは、まずは痺れ薬をお飲みいただいたうえで、鋭い斧で頭を切り開き、風涎を取り除きまするが、これでのうては根治はかないませぬ」 「貴様はわしを殺そうというのか」 曹操が怒ると、 「大王には、かつて関公(関羽)が毒矢にあたって右臂を痛め、それがしが骨についた毒を削り落して療治いたしました時、恐れる色も見せなかったということを、お聞きおよびにはございませぬか。大王のご病気はさしたるものではございませぬに、それはちとお疑いが過ぎましょうが」 「臂を切り開くこともできようが

    毛宗崗本における華佗の最期 - 三国与太噺 season3
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    gureneko 2013/09/23
    毛宗崗本で曹操が華佗を殺した理由
  • ハンバーグ - てぃーえすのメモ帳

    帝王世紀云、「囚文王、文王之長子曰伯邑考質於殷、為紂御、紂烹為羹、賜文王曰『聖人當不其子羹』。文王之。紂曰『誰謂西伯聖者?其子羹尚不知也』。」 (『史記』巻三、殷紀注「正義」) 殷の紂王の時のこと。 次の時代の天子となるべき天命を受けた「受命の君」たる周の文王は、当然当時の天子である殷の紂王に捕えられ、長男の伯邑考は人質として紂王の御者にされた。 そこで紂王は一計を案じた 「もし周王が当に次の天子になるような聖人だとしたら、息子の肉をうような非道はやらないだろう」 そこで紂王は伯邑考さんをハンバーグシチューにし(比喩表現)、周王に振る舞ってみた。 べるのを避けるようなら周王は聖人ということなので、紂王としては自分たちの地位のために周王を消すつもりなのだろう。 だが、周王はそのハンバーグシチューをハムッ、ハフハフ、ハフッ!!とべてしまった。 紂王さんは「おいおい、全部べちま

    ハンバーグ - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2013/08/28
    「漢の劉邦の有名なアレはもちろん、劉備とか曹操なんかも同じ視点からそういうストーリーが史家によって構成されている、的なことがあったりなかったりしないだろうか。」
  • 王会宗 - てぃーえすのメモ帳

    皇孫功崇公宗坐自畫容貌、被服天子衣冠、刻印三、一曰「維祉冠存己夏處南山臧薄冰」、二曰「肅聖寶繼」、三曰「徳封昌圖」。又宗舅呂𥶡家前徙合浦、私與宗通、發覺按驗、宗自殺。 莽曰「宗屬為皇孫、爵為上公、知𥶡等叛逆族類、而與交通、刻銅印三、文意甚害、不知厭足、窺欲非望。春秋之義、『君親毋將、將而誅焉。』迷惑失道、自取此辜、烏呼哀哉!宗名會宗、以制作去二名、今復名會宗。貶厥爵、改厥號、賜諡為功崇繆伯、以諸伯之禮葬于故同穀城郡。」 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下) 王莽の孫にあたる王宗という者は、王莽が皇帝になるともちろん高い地位につけられていたが、かつて謀反の首謀者として断罪された母の兄にあたる呂寛の一族と連絡を取っていた。 さらに彼は自分が天子コスを身に着けたコラ画像を作っていたりしていた。 「外戚と結んでクーデター起こして自分が皇帝になろうとしている」という疑惑があったことになり、彼は逮捕

    王会宗 - てぃーえすのメモ帳
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    gureneko 2013/08/24
    新における二字名。
  • 新豊と豊 - てぃーえすのメモ帳

    http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130819/1376838670の昨日の記事なんだが・・・。 かつて、http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110826/1314286419と劉邦が関中に「新豊」を作ったということを後から思い出した。 それによれば、高祖劉邦は父の太上皇のために故郷である豊から知り合いや街の人間、社などをそっくり移住させ、関中に豊をそのまま再現した邑「新豊」を作ったというのだ。 ということは、おそらくだが太上皇の知り合い、つまり劉邦親子と親しかった人間は多くが新豊に連れて行かれており、元々の豊の方にはそうでもなかった人が残されていたのだろう。 もしかしたら、新豊に連れて行かれなかったのは、「劉邦をかつて見限った裏切り者」だったのかもしれない。 だとしたら、劉邦が豊には徭役免除の特権を与えたがらなかったのも当然だろう。 その頃の豊は

    新豊と豊 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2013/08/20
    特権を与えられるに相応しい住民は、既にそこに居なかった!劉邦が「豊」に特権を与えるのを渋った理由の一つとして、実に鋭い仮説である。そして、他の天下人の不可解な行動を探る際にも応用出来そうな発想である。
  • 【没落の法則】猛暑でさえも没落させるエル・カンターレの威神力! - 幸福の観測所

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    gureneko 2013/08/02
    阿佐田哲也曰く「落ち目の人の逆を行け」。
  • 『漢晋春秋』の蜀漢正統論 - 三国与太噺 season3

    中村圭爾先生の「魏蜀正閏論の一側面」(『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013)収録)を読んだ感想であります。 習鑿歯『漢晋春秋』の蜀漢正統論は、『四庫提要』が言うように蜀漢と同様に亡命政権を建てた東晋の正統性を主張するため、と解釈されてきました。あるいは『晋書』習鑿歯伝の言う、桓温の野心に対する牽制ともされます*1。 でも中村先生は、更なる習鑿歯の真意に踏み込みます。自分が興味を感じたところをまとめますと、以下の通りです。 習鑿歯『漢晋春秋』は漢から晋の継承を主張する。魏は僭称にすぎず、また蜀漢は正統なる漢の一部である。しかし習鑿歯の真意はあくまで「尊晋」にあり、その点では陳寿『三国志』と同様である。共に「尊晋」を目的にしながら、陳寿は魏を正統とし、習鑿歯は漢(蜀)を正統とする。 陳寿が「尊晋」のために魏を正統とする理由は、司馬炎が魏から受禅したことを重視するから。しかし習鑿歯は、魏の

    『漢晋春秋』の蜀漢正統論 - 三国与太噺 season3
    gureneko
    gureneko 2013/08/02
    「西晋の陳寿の魏晋継承論、東晋の習鑿歯の漢晋継承論、どちらもそれぞれ当時の求めに適った歴史観だったことが窺えます。」