今の北東アジアにおける日本の立ち位置は19世紀末のそれに似ている。日本が中国に勝って満州に手を伸ばしたものの、ロシアが主導した三国干渉で韓半島(朝鮮半島)における影響力を失った時期のことだ。それまでの日本の国策にはアジアがあった。西欧帝国主義とは距離を置き、自主的な力で日本を中心とするアジアの連帯を成し遂げるというものだった。日本の「正統保守」と言ってもいい大アジア主義路線は、後に「大東亜共栄圏」という侵略路線として復活するまで、日本の国策から排除された。 三国干渉は「西欧列強の助けを借りなければ、日本だけでは何もできない」ことを表していた。外交力の限界と「脱亜入欧」(アジアを脱し、西欧諸国の一員となること)の正当性を痛感したのだ。日本はロシアと交渉した。ロシアは満州の権益を持ち、日本は韓半島の権益を持つという「満韓交換論」や、平壌近くの39度線で韓半島を分けるという「南北分割論」を両国で