ウェブ上のシラバス情報をもとに米国の大学の授業でよく用いられている文献を1位から100位まで順に並べたリスト。文献の和訳の情報とその文献の簡単な解説を付す。 はじめに Open Syllabus Project というウェブサイトに、各国の大学の授業で使われている教科書についての情報が頻度順で載っている。ここから、米国の大学の授業で教科書としてよく使われている文献のランキング1位から100位までを紹介したいと思う。 Open Syllabus Project は、米国の大学を中心に様々な大学のウェブ上のシラバス [1] をまとめたウェブサイトである。このサイトにまとめられているシラバスの情報から、大学の授業でどのような教科書が使われているかという情報が抽出されている。この抽出された情報は、Open Syllabus Explorer から閲覧することが可能である。 なお、Open Syll
第13回(ゲスト:菅原伸也)――現在の日本で共同体を再考することについて 菅原伸也さんとの往復書簡。締めくくりとなる菅原さんからの手紙は、共同体再考において「ケアの倫理」を掘り下げ、さらにアガンベンのイメージ論も援用して人間の差異/共通点を考えます。 往復書簡 田中功起 目次 件名:あたかも一本のフィルムであるかのように 田中功起さま お返事ありがとうございます。 始まってみれば早いもので田中さんと僕との往復書簡も僕からのこの返信で最後となります。これは初回に言うべきことだったかもしれませんが、僕は元々は「共同体」という言葉には違和感を持ち続けていた人間でありました。しかし、様々な書籍そして他ならぬ田中さんの作品を通して、「共同体」についていま思考することの必要性、共同体という概念を拡張し現代の状況に対して有効性を持つものへと鍛え直す可能性について思いを巡らし始めていたときにこの往復書簡の
■津田・国民思想論・1の2 子安宣邦 「民族」という始まり・2 「民族」概念の成立 民族(ピープル)とは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのような想像の共同体である。 エティエンヌ・バリバール「国民形態の創出」[1] 2「民族」概念の成立 1)「民族」という語・1 「民族」という概念の成立とともに、この「民族」を「始まり」としたもう一つの「日本」の文化史・芸術史・文学史などが成立することをいった。そのことはわれわれにおける「民族」概念の成立以前には、この「日本」についてのもう一つの別の語りがあったことを意味する。私はすでにサンソムの「混合型」というべき文明史をもう一つの語りとして見た。ここでは竹越与三郎の『二千五百年史』から興味ある一節を引いておきたい。 「而して日本国民は其の
「思想史講座」のお知らせー10月のご案内 子安宣邦 *思想史講座「未完のナショナリズムー津田『我が国民思想の研究』を読む」 *だれでも。いつからでも聴講できる思想史講座です。 *10月から「未完のナショナリズム」というタイトルで新講座を出発させます。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題をめぐって考えてみたいと思っています。第一回には津田の書が「我々の民族」をいうことから始まっている、この始まり方を問題にします。この始まり方が何を意味するのか、その「民族」概念とともに問い直してみたいと思っています。 *大阪教室:懐徳堂研究会 10月15日(土)・13時〜15時 津田『国民思想』論・1:「民族」という始まり」 会場:梅田アプローズタワー・14階1403会議室 *東京教室:昭和思
ここをクリックするとひらがなのルビがつきます。 ルビは自動的にふられるため、人名等に一部変換ミスが生じることがあります。あらかじめご了承ください。 野崎 泰伸 (のざき やすのぶ) 佛教大学 ■報告題目 知的障害者は倫理学の対象となり得るか ■報告キーワード 知的障害者、倫理学、知的能力 ■報告要旨 倫理学とは道徳に関する哲学である。道徳について考えるうえでは、道徳的配慮を行う道徳的主体と、道徳的配慮を受ける道徳的対象とが存在しなければならない。道徳が行為や世のなかに存在するものの正邪や善悪の規範である以上、誰を対象とした規範であるか、つまり道徳的配慮の対象については、考えられなければならない。 なぜ道徳的主体ではなく、道徳的対象について考えるのか。道徳的主体はほぼ自明であるからである。道徳的主体になり得るのは、道徳について考えることのできる人間に限られるであろう。将来的に、人工知能がここ
<髭 郁彦:言語哲学> 時代は新たな希望を作り出すものであると共に、時代は掛け替えのないものを抹殺するものでもある。それが、子安宣邦氏の『「大正」を読み直す――幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店、2016、以下サブタイトルは省略する) に対して最初に抱いた感想であった。日本の歴史も思想もまったく知らない私がこの本について書こうと思ったのは、時代とは何か、時代的精神とは何かという問題を熟考する必要性を感じたからである。だが、そこには一つの大きな難問が横たわっていた。天皇の交代によって決定される時代区分を持つ日本において、明治、大正、昭和、平成という近代以降の変遷を考えることは、ある特異性について考えることのように思われたからである。西暦による連続性を断ち切るようにして出現する元号による時代区分は、新時代の幕開けを明示すことができる一方で、時代的連続性を覆い隠してしまう危険性
暇に飽かして、読書三昧、至福の日曜日である。今は、白澤社発行三木清『人生論ノートを読む』岸見一郎著を読んでいる。三木は神戸の生まれで1高に進学、一高から京大へきている。京大では、西田幾多郎に師事京大卒業後は岩波書店の援助を得て ドイツへ留学。ドイツではハイデッカーのもとで学び、リッケルト達と交流している。 まあ当時の我が国では目を見張る秀才であり、哲学界切ってのサラブレッドであった。この頃我が国の青年たちは「人生とは何か」とか「死とは何か」と云ったことを全身全霊で考え学ぼうとしていた。 一方オソマツ君たちの高校・大学前期では、人生論は下火で誰も関心を示さずむしろ社会主義とは何か、マルクス・レーニン主義とは何かと云うことに興味が移っていた。 戦前は徴兵制があり、何時戦場で死ぬかもしれないという宿命から逃れることはできなかったし,戦後は米ソの冷戦がはじまっていたことを思えば一応は理解できるが、
発見されたら歴史を変えるかもしれない、昔に消失した重要書物 今でこそコピペで大量に文書が複製されネット上にバラまかれて問題になる時代ですが、昔は書物自体が高価で所有できるのは一部の金持ちのみだったし、書いても複製されて多くの人に読まれること自体が奇跡的なことでほとんどあり得ないことでした。 そのため、古人がその命を燃やして書いた多くの名作がもうすでに存在しないに違いないし、当時から著名だった人物が書いた書物ですら、結構な数消失してこの世から消え失せています。 その書物がもし現代の世に現れたら、どれだけのインパクトを世界にもたらすか計り知れない、すでに消失した重要書物をご紹介します。 1. イブの福音書(作者不明) ヨハネによる福音書やマルコによる福音書などは、キリスト教会により「聖典」として認められていますが、いくつかの福音書は異端思想が含まれているとして聖典として認められていません。 そ
6月22日公示、7月10日投開票の第24回参議院議員選挙。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられてから最初の投票となります。シノドスでは「18歳からの選挙入門」と題して、今回初めて投票権を持つ高校生を対象に、経済、社会保障、教育、国際、労働など、さまざまな分野の専門家にポイントを解説していただく連載を始めます。本稿を参考に、改めて各党の公約・政策を検討いただければ幸いです。今回は教育政策の観点から、社会学者の仁平典宏氏にご寄稿をいただきました。(シノドス編集部) 1.はじめに 教育は、若い人にとって、比較的関心が高い分野だと思う。今年4月の18~19歳への調査でも、「政治で力を入れてほしい」と思う分野では、景気・雇用、社会保障についで、3番目に高かった(「朝日新聞」2016年4月8日)。 しかし、今回の選挙では(でも?)、教育は大した争点になっていない。めだつところで奨学金の充実、そして幼児
元禄9年(1696年)。尼崎藩主青山播磨守幸督(よしまさ)の老臣、喜多玄蕃の屋敷にお菊という女が侍女として奉公に上がっていました。 お菊は気だてが良く大層美人と評判でしたが、嫉妬深い玄蕃の妻はこのことが面白くありませんでした。 ある日のこと玄蕃の妻はお菊を陥れようと、お菊が給仕した喜多玄蕃の御膳の碗の中に縫い針を忍ばせました。 喜多玄蕃は碗の飯を一口頬張ろうして、針の混入に気付きました。 玄蕃の妻はすかさず「これはお菊のせいに違いない」と騒ぎ立てました。 玄蕃は自分を殺害しようと企てたとして激怒。 お菊を荒縄で縛りあげると逆さに吊るして折檻し、お菊が苦痛のあまり気を失うと井戸の水を浴びせては何日も折檻し続けました。 そしてとうとうその井戸の中にお菊を投げ込んで殺してしまったのです。 事の次第を聞きつけたお菊の母、お米は大慌てで喜多宅に謝りにかけつけましたが、既にお菊は井戸に投げ込まれ絶命し
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く