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ブックマーク / finalvent.hatenadiary.org (5)

  • 非常にきびしぃ増田 - finalventの日記

    ⇒近藤さんは、はてなを捨てるべき 正論の部分はある。 任天堂とのことはよくわからない。 レイコンさんの子育てみると、戦後の町工場的で微笑ましいなという印象もある。そういう一つの小さな事例でこのまま、だーらだら続いてもいいのかもしれないと思う。 はてながすごいなと私が思っているのは、狂っているところ。多様にそうだけど、資の論理というか上場を狙ってナンボのmixi的な動きをとらなかったこと。梅田さんの発言を読むと(どこだったか忘れたが)そのあたりの支持はあったかもしれない。 はてなは変わるのかもしれないし変わらないのかもしれない。よくわからない。私もここでそれほどずっと書いているものでもないかもしれない。そこもよくわからない。 ただ、ここまでの動きをみていると、ある種の変な教育NPOみたいな感じがする。少なくとも、はてながなければ私は、現代の後期青春というものを見ることはできなかったかと思う

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  • 自炊デジャビューのスズメ - finalventの日記

    inspired by 自炊デビューのススメ - タケルンバ卿日記 春はなにかと朝立ちのシーズンであり、これから迫り来るの季節におののいている方も多いかと思いますが、人生の敗残兵として言っておきたいことがあります。 自炊する? メシは絶対自炊がいいとはいいきれません。基的に「絶対」という物言いをしてみたいものですが、「世の中に絶対はねえよ」です。 安いは状況による 単純外と比べると安いけど、総菜をちょっこし作るとなると、あれです、「買ったほうが安いね晩のおかず♪」です。そりゃもう。 つまり、作る手間との楽しさは、全体的なコストとのバランスで考えたほうがいいわけです。 外は気晴らしや人との出会いの場にもなります。 栄養をとるには知識が必要 自炊だからって栄養が摂れると限りません。野菜で栄養が摂れるとか、んなことないです。自然とか新興宗教です。栄養については科学的に基を学ぶべきで

  • 私流ノートの取り方 - finalventの日記

    2つある。 あとで問題集にするためにその解答用(あるいはその資料)に作る (未公開) いやちょっと出し惜しみで申し訳ない。が、1だけでも学生さんにはお勧めしたいが。というわけで、もうちょっと解説する。 まず、普通にノートを取る。あるいは、ノートの取り方のうまい人のノートを借りてくる。学生さんとかだとノートを借りるというのは授業さぼってということが多いと思うが、これはあれです、ノートの取り方がうまい人というのが世の中にはいる。だから、自分でも取っておきながら、そのノートも見せて貰う。ついでにいうと、なぜかノートの取り方のうまい人がそれほど成績が群をぬけてよいわけでもなく(悪いわけはぜんぜんない)独創性があるわけでもない。さらについでにいうと、けっこう普通な感じの女性に多い。で、この手の女性というのはいかにも普通に思える。でも、彼女たちはとても自制しているのでそのあたりの自制の内側というのはな

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  • 「ブログは始めてみたが、もう何を書いてよいのか分からない」と悩んでいる人のための三冊 - finalventの日記

    私の「ぶくまのクネクネさは自ら情報を発信する側にならなければ理解できない」という言葉にもかかわらず、「ブログは始めてみたが、もう何を書いてよいのか分からない」とうるうるする人たちが私のまわりにも何人かいる。今日はそんな彼らのための推薦図書三冊。 1冊目。 アラン定義集: 神谷 幹夫 ネタの宝庫である。これを写し取る。自分と感性とか考えが違うかなという点を書き換える。キーワードを /不幸/非モテ/g みたく置換してもよい。仕上げは、全体をきっこ文体とかうるるん文体とかま、ありげな文体にする。なんか自分の主張のような気がしてくる。アップロード(って言葉最近使わないですね)。 2冊目。 「 生誕の災厄: : E.M.シオラン,出口 裕弘」 人生の真実とはこの書籍のなかにすべてある。ネガティブ・シンキングを学びたい人にもよい。 シオランは何を読んでもよい。どれを読んでも同じだという人もいるくらい

    「ブログは始めてみたが、もう何を書いてよいのか分からない」と悩んでいる人のための三冊 - finalventの日記
  • 時は過ぎていく、君は美しい - finalventの日記

    二十五歳のときに人生に絶望した。もともと二十歳以降まで生きているのが奇妙な感じではあった。が、二十代というか、大人になった自分というのは、へぇという感じだった。臙脂色の緞帳が上がるがごときだった。歳相応の未熟な恋もしてそして破れそして忘れた。忘れるものだ。が、無意識のなかの私はたぶん時を忘れてないのだろう、というか、もうひとりの私はなんとなく私の死後までこの太虚のなかにミームとして残るというか、そこを胎としてまた私のような意識が生まれるのだろう。私のような自意識。凡庸というサンサラ。 絶望というのは奇妙なもので、字義にすれば望み絶たれるであろうし中国古典でも読むような大望果たせずみたいなものであろうし、人によってはそういうものかもしれないが、絶望というのはもうちょっと変なものだ。生きている意味も意識もなく身体が生きているというのだろうか。この世界と身体と意識の奇妙な、そうあれは昔の遊園地に

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