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物語と読書に関するhanemimiのブックマーク (7)

  • まとめよう、あつまろう - Togetter

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  • なぜサリンジャーは奥さんに叱られたのか 2010-05-18 - 空中キャンプ

    米作家JDサリンジャーは、自分の娘に「フィービー」と名づけようとして、奥さんに猛反対されている。わたしはこの話を知ったときに、とても居心地がわるく、すこし怖かったことを覚えている。たとえば、マーティン・スコセッシが彼の息子に「トラヴィス」と名づけることはないだろうし、谷崎潤一郎が娘の名前を「ナオミ」にすることもない。ジョン・アーヴィングの息子が「ガープ」だったら、きっと学校でいじめられてしまう。村上春樹に双子の娘が生まれたとして、それが「直子」と「緑」だったとしたら、それはなんだかすごくへんだ。そういうことをしてはいけないと──自分自身の作り上げた物語に、みずからの実人生を過剰に仮託してしまってはいけないと──われわれはなんとなく気がついていて、だからこそ、自分の娘に『ライ麦畑でつかまえて』の登場人物と同じ名前をつけたがったサリンジャーはどこかいびつに見える。 サリンジャーが自分の書いた物

  • 【レビュー・書評】煙滅 [著]ジョルジュ・ペレック - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

    煙滅 [著]ジョルジュ・ペレック[掲載]2010年2月28日[評者]奥泉光(作家、近畿大学教授)■特定の文字の不在が導く「物語」 これはとんでもないである。どうとんでもないのかといえば、一九六九年に発表された仏語の原作は、三百頁(ページ)を超える長さがありながら、「e」の文字を一度も使っていないのである! いわゆるリポグラム(文字落とし)というやつなのだが、仏語において「e」は最も出現頻度の高い文字であり、この制約は、日語でいえば、「い」段の仮名「い、き、し、ち、に、ひ、み、り、ゐ」を、「い」段の音が入っている漢字を含め一回も使わないで書くのと同じくらいの困難をもたらす。とても可能とは思えない。だが、現に、そのとんでもない作品は存在するのだ。そして、訳書『煙滅』は、右の「い」段抜きの制約を訳文に課すという形で、原作に倍するとんでもなさを素晴らしく実現している。 そんなことをしてなんの

    hanemimi
    hanemimi 2010/03/04
    「素朴にいっても、小説は言葉のアートなのであり、だからそういうことをする意味が分からないという人は、小説ではなく、「癒やしの物語」とか「いい話」とかを求めているにすぎない可能性がある」
  • 活字中毒R。

    『文藝』2007年春号(河出書房新社)の「特集・恩田陸」より。 (恩田陸さんと漫画家・よしながふみさんの対談「思春期が終わるその一瞬の物語」の一部です) 【恩田陸:あと、よしながさんの描く漫画では登場人物がちゃんと自分の人生に対するツケを払っているところが好きなんですよ、私。 『西洋骨董洋菓子店』でも、主人公が幼少時代に誘拐されるというトラウマを背負いながらも最後、「結局、オレは全然変わってねーじゃねーかよ、じゃあまたケーキを売るか」って呟いていつも通り家を出ていく、というのは、何かちゃんと自分の人生を自ら引き受けて生きているっていう感じがするんです。 よしながふみ:私はドラマが大好きでよく観るんですけど、例えばヒロインのトラウマがレイプだった場合、途中で男性恐怖症に陥りながらも、レイプした当事者を告訴し最後は恋人ともよりを戻すという、まあいい終わりなんですよ、決して明るくはないけれど。こ

  • 佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-1 - 事実だけとは限りません

    今回も『地中海』に関する話題には至らず。せっかく読んだ内容を忘れてしまいそうだ…… お話は「世界の絶対的怪異性」について。我々が慣れ親しんでいる世界は、我々と関連を持っている世界である。つまりなんらかの法則にしたがって運行し、その規則を守っていれば幸せになれるし、規則を破れば不幸になる、といった因果応報の原理が働いている世界だ。 しかしそうした自分と世界との因果関係など実は存在しないことが、明らかになる瞬間がある。世界と我々の間の「絶縁状態」が明らかになる。その時垣間見える「我々にとって他者である世界」が、「世界の絶対的怪異性」である。「カフカ的」とも言える。 稀に、多くの人間が同時にそれを体験することがある。9.11は、その一例である。あれは、あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑える光景。「笑える」ということが認められない人たちは、「非現実的」という表現を使う。 「ハリウッド的」という表現もあった

    佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-1 - 事実だけとは限りません
  • 物語に「正解」はいらない。 - Something Orange

    と、ぼくは思うんだけれど、どうよ? いきなりこんなことを書いてもわからないか。 小説でも漫画でも、映画でもいい、何かしらの物語を読んだり、見たりしているとき、そこに作者の考える「正解」を見つけることがある。 「正解」とは「このように行動すれば良いのだ」という、その作家なりの結論のことである。ぼくの場合、物語にそのような「正解」が出てくると、白けてしまうことが多い。現実にはそうそう「正解」は見つからないと思うからだ。 たとえば、槇村さとるである。往年の少女漫画家時代はともかくとして、最近の槇村が描く作品には、いつも「正解」があるように思える。 以前にも書いた記憶があるが、槇村さとるの作品を読むとき、ぼくはいつもそこに「正しさ」の圧力のようなものを感じる。このことに関しては、ぼく自身の言葉で語るよりも、「紙屋研究所」の的確な批判を引いたほうが早いだろう。 正直、槇村さとるは、嫌いな漫画家の一人

    物語に「正解」はいらない。 - Something Orange
  • 2008-03-30 - 空中キャンプ

    なにが効率的で、なにが役に立つのかといったことを、人は事前に言いあてることができない。わたしはそうおもっている。たとえば、ある種の知識を得ることで、よりよい人生がおとずれる、といった思考をわたしはしない。ビジネス書に載っている答えが社会生活をスムーズにするとはあまりおもっていない。それは、精神の活動を足し算で考えるようなしかたである。を読んで脳に1の情報を入力した、別のを読むことでさらに1の情報を入力した、そこで脳はトータル2の情報を得て活発に動きまわることができる、といった発想がわたしにはない。人は「役に立たないこと」や「いっけんむだにおもえること」を通じてようやく呼吸し、暮らしていると考えている。 わたしは人の精神の活動を、もっと不可解なものととらえるのだ。つまり、脳の中には、入力した情報をかたっぱしからどんどん破壊し、ねじまげてしまう怪獣が住んでいて、あらゆる記憶や情報は、怪獣が

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