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ブックマーク / azuryblue.blog72.fc2.com (3)

  • Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか?

    (6月6日付エントリの続きである、6月8日付エントリの続き) 板坂耀子氏の「私のために戦うな(弦書房、2006年12月25日発行)」の117ページに「ありふれたパターン」と題された章に、こんな記述がある。 昔から恋愛映画のクライマックスになると、どんなに優しくおとなしい男性と強く積極的な女性のカップルでも、男性が女性を抱き寄せ、女性はそれに抵抗し、そして最後には必ず男の胸を押しのけ叩いていた女の手は男の首にからまって、二人はベッドに倒れ込み、結局のところ幸せになる、と指摘する。(略)これまでの映画は、国も時代も問わず、男女のラブシーンといえばまずはもう必ず、男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして最後に女の抵抗が終わってめでたし、という図式を踏襲しつづけてきた。(略)大抵の人間なら、繰り返し見せられれば、恋愛とはこういうものと思い、それに自分を遭わせるように学習するのが普通だろう。「現実が芸術を

  • Gazing at the Celestial Blue 「それ」がもたらす「社会の『常識』」

    たぶんほとんどの女性はさ、男性に性欲の対象として消費される存在としての「女という性別」を、うっすらとであれ理解して受け止めてると思うよ。積極的にじゃなくて、消極的に、事実として受け止めるしかないっていう感じで。 だから痴漢に対しても、心のどこかで「しょうがない」って思ってる。一部にそういう性癖の人間がいることを、そして通り魔同然にたまたま自分がその対象になってしまったことを、不運な事例として黙って心にしまってしまう。 性犯罪は、確かに、ごく一部の悪質な人間のすることだ。それらは被害者をモノ扱いしている訳で。 だが、この、モノとして消費される・扱われる・値踏みされる感覚というのは、不意ながら覚えがある。 『消費される存在としての「女という性別」』という表現に、どきりとして思い出した件があった。 学生時代、どういう話の流れでそうなったのかの記憶は定かではないが、先輩後輩&男女入り交じった5-

  • Gazing at the Celestial Blue 読書メモ;「戦争とジェンダー」

    Apemanさんの「Apes! Not Monkeys! はてな別館」に気になる記事があったので、この前読んだにあった記述をエントリーにしておきたくなりました。 気になる記事とは、8/30付の「否定論の「性暴力」観」。 記事内容は、「映画『南京の真実』製作委員会」代表の水島聡氏によってスタッフブログに記された「強姦やり放題だったとすれば、慰安婦など必要無い筈」という見解と、ほっけさんのブログコメント欄に出てきた「似たようなことをほんの少し上品ないい方で表現」した人物の見解紹介で、Apemanさんはそれぞれの見解を水島歴史学によれば旧軍が考えていたのはひたすら“将兵が性欲を充足させること”だけであり、強姦が多発していたのであればそれはそれで結構なことだ、と考えていたことになってしまいます。 (中略) この(引用者注;似たようなことを表現した人物の)解釈によれば、日軍は性病への罹患や占領地

    hanemimi
    hanemimi 2007/09/03
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