題名に書いたとおりしばらくブログを休みます。 (体調を崩したわけではないです。ちょっと突然の用事が起こり、それへの対処のため。 いろいろ考え思うこともあり、不器用な自分には「ブログやりながら…」はむずかしいのです。 また「お会いする」日を楽しみにしています) ちりとてちん
きょうは東日本大震災から11年目。 11年目の3月11日だ。 あの大災害を受けざるを得なかった人々は、いまのウクライナの惨劇を どのように感じ、受けとめておられるだろうか。 大地震、大津波という自然現象ではなく、戦争という「想定外」の人工現象。 (「11」は日本語では「いい」。「良い」であり「好い」。 東日本大震災の3.11のときには先に「9.11」もあったけれど《私だけかもしれないが》 「11」ということを特に意識しなかった。 けれども、11年目のロシア・プーチンによるウクライナへの一方的な攻撃、戦争に、 そう思いたくなくても悪いイメージが重なり、「11」に謝りたくなった) 原子力発電所が、あのときは(望まぬ)「事故」として放射能漏れなどの 大被害が結果として発生してしまったが、こんどは(望んで)攻撃対象にされ 「事件」となろうとしている。 と、きょうの日記帳は一日分の枠を大幅にはみだし
最後のきょうは、 ④「善の懴悔」 (「懺悔」:キリスト教などでは「ザンゲ」と発音しますが仏教ではよく「サンゲ」といいます) ーーーーーーーーーーー ④「善の懴悔」 【引用】「善の懴悔 倫理や道徳の世界では廃悪衆善が目的となるが、…廃悪衆善の〈あと〉が重要なのだ。… とくに善の懴悔… 他者に善を行わんとする者は、微に入り細にわたって行わなければならない」 ーーーーー 「善かれ」と思いしたことが、相手にとっては善くないどころか、逆に傷つけて しまうことさえある。 相手の気もちを正しく(ありのままに)汲むことは、とてもむずかしい。 (自分としては善意であっても、相手がそれを望んでいないとき「善意の押しつけ」になってしまう。 善行はよほど慎重でなければならない。 よく、「善とわからず善をなすこと」のたいせつさがいわれる。 むずかしいことだろうけれども、「独りよがり」「自己満足」にならないために。
終りは、「忘却」(忘れること)と「アイデンティティ(自分であること)」。 ーーーーーーーーーー 「忘却」 【引用】 「「忘れたこと」は何であったのかを忘れてしまうのだ。 つまり、「忘れたこと」の内容は忘却しているにもかかわらず、「『忘れたこと』を忘れた状態」 であることを感受しているため、一層の〈不安〉に晒されることになる。これこそが「認知症」と 呼ばれる当事者の〈不安〉を形成するのだ。 … 「忘却」とは、言うなれば、私たちが「自分」を保つ上でこの上なく必要な情報処理の装置なのだ。 また「記憶」とは、日々の様々な出来事を「過去」の情報へと変換して飼い慣らしていくための、 これまた必要な情報処理の装置である。 だから、私たちは「忘却」すると同時に、「記憶」していくことで、「自分」という存在を 辛うじて保っているのである。 … 「何を忘れたのかは分からないけど、何かおかしい」という経験こそが、
アメリカ大統領選挙の勝敗は気になったけれど(国民の「分断」状態を想像する だけで吐き気がするのでいつまで続くのか、トランプ政治がたとえ経済を上向きに していても彼が再選されないことを願っていた)、もし再び当選することになれば そういう事態をどう受け止めたらいいだろう?ともっともっと気になった。 「分断」「差別」を容認するトランプ支持者。 前回選挙はトランプが選ばれるかどうかは未知(おそらくダメだろうとの予測が 多かった)、初めてのことだったので、「分断が危惧されていても一国の大統領。 無茶や非道理はしないだろう。ともかく彼は有能なビジネスマン!」と期待し、 支持した人々のことがいくらか理解できたけれど、こんどばかりは同じ人間として (あれこれ考えても)わからない。 ----- 大統領選の前、NHKのルポルタージュで、街の声を取りあげていた。 その番組をみていての感想。 ↓ トランプ支持者の
前に水飲み鳥のことを書いた。 一昨年の秋の旅で新潟県の月岡温泉で買った。 一般的なガラス製品でずいぶんむかしに流行った。昭和のにおいがする。 別に温泉土産としではなく、おもしろいので買ったが、旅の記念にもなっている。 「水飲み鳥」という一般的な呼び名は味気ないので買ったときから「ピーちゃん」 と名づけている。 ピーちゃんは2年目になるいまも毎日、元気に首を 振っている。 ガラス製なのですが人形みたいに愛着がわき、24時間動きっぱなしでは疲れる だろうと朝、くちばしを水に浸して動きを開始させた、夕方には水容器をどかす。 水を吸ったくちばしはなかなか乾かず、こっちが寝るころもまだ首を振っている。 見てください。 www.youtube.com ところが、たまに振らないことがある。 (水飲み鳥の首振り原理は、赤い液体(ジクロロメタン《塩化メチレン》)の尻と 頭への動き(流れ)による重心の移動)
『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』 河邑厚法徳+グループ現代 という新書を読んだ。 「お金」。 社会に必要とされる限り、つき合わされるモノ。 「モノ」だけど、神さまのようだ。 多く持つほど、「金持ち」になるほど幸せになる 気がする。 (そうだとしても 私も金持ちになりたい。でも「大金持ち」でなくていい)。 お金の持つ「物神性」にダマされないためには、 お金の本質を考え、根源的にとらえるほかない。 そうしないと人間らしい豊かな生き方はできない、 とエンデは、深く考えていたと知りおどろいた。 エンデは、子どもに「お金、流通のような抽象的なむずかしいことがわかる わけがない」と大人の言いそうなことに反し、理屈はまだわからなくても、 彼らが『モモ』の世界、おもしろさを感じることを通し、自分の思いは直感的に 伝わると信じていたのではなかろうか。 それにこんなことも思った。 ずっと前の記事に、
『なりゆきを生きる』 玄侑宗久 を読んだ。 著者、玄侑さんは福島県三春町(日本三大桜といわれる推定樹齢1000年の 「滝桜」のあるところ)の僧侶で、作家でもあり、これは東京新聞などに長く 連載されていたエッセイが本になったものです。 「なりゆき」は「成りゆき」で、なりゆきに身を任せるのが好きな者としては 励まされている気がしました。 (ただ、こんどのj党 の総裁選をめぐる流れを見るとたまらなくイヤになる。 sg氏。もともと総裁なんて気はなかったと思うが《いや、あったのか》ボスたちに 担ぎ出されたロボット・傀儡のような姿をみると、《決してヒガミではなく》 こんな「なりゆき」には身を任せたくないなと思った。 ひと口に「なりゆき」といってもこういうのもある) 人生に「初心」とか「志」はたいせつなことで忘れてはならないと思うけれど、 忘れなくても(原因は自分の力量不足であれ、ウンが悪かったことで
カメキチの目 『ナバホへの旅 たましいの風景』 河合隼雄 ・著の2回目。 コロナ後の世界があれこれ言われだしている今、 北アメリカ先住民族を訪ね「たましいの風景」に出あえた 河合隼雄さんの著作から学ぶものはとても大きい気がする。 【引用】 スチュアートさんの言葉で印象的だったのは、「医療が工業化している」 ということであった。工業では上等の部品を沢山早くつくって、 上手に組み合わせると効率のよい機械ができる。 そして、機械が壊れると部品を取り換えるとよいのだ。 このような考え方が医療でも強くなり、すべてが「効率よく」なるが、 人間性は失われてゆく。 工業化された医療は、結果に重点を置きすぎる。 つまり、治ったか治らなかったかということにこだわる。 しかし、医療において、「過程」が大切なこともあるのを忘れてはならないと、 スチュアートさんは言うのである。 つまり、治らなくても、 その患者が死
カメキチの目 内田樹さんはしばらく前までは大学の教師で、 世界(とくにフランス)の思想・哲学の専門家。 内田さんは、レヴィナスという哲学者を(学問の上だけで なく人生の)恩師として尊敬し、慕っておられる。 私は「レヴィナス」という名前自体が初耳だった。 だから、著作にはよくレヴィナスが出てくる。 (『内田樹による内田樹』にも当然でてきた。最後はレヴィナスについての2冊) レヴィナスは難解と言われているらしいのですが、内田さんはまったくの初心者で あっても納得がいくよう、わかりやすく述べておられます。 (読者にわかりやすい書き方をとても意識して書いておられる気がする) 読者がわからないと本を書く意味がないと、暗におっしゃっているかのようだ。 私は、文学、絵画、彫刻、工芸、音楽、映像などの芸術は感覚、感性で感じるもの だから理解できる・理解できないというレベルのものではないと思う。 が、芸術で
カメキチの目 (日本でも東京圏など7都道府県だけだが、「緊急事態宣言」が出ることになった 新型コロナ。私も自分の身近なところでも聞くようになった。 外出が制限され、そのストレスが酷い場合は弱い立場の人に暴力や差別的な言動に なって現れやすい《朝のテレビニュースでは、オーストリアでDVが急増している と伝えていた。もちろん、オーストリアだけの問題ではない》。 とても気になるが、読んだ本のことを書きます) 「アイデンティティ」という言葉をよく聞くように なったのはいつ頃からだろう。それほど古くはない 気がする。 「実用日本語表現辞典」によれば 【引用】 アイデンティティとは、同一性、すなわち「《他ならぬ》それそのものであって他のものではない」という状態や性質のこと、あるいは、そのような同一性の確立の拠り所となる要素のことである。 「アイデンティティ」は人種、民族、性別、宗教、言葉、文化など、生
カメキチの目 「あった」こと(事実)を「なかった」こと(無)にする それが天に唾することだと、政府の面々はわかって いるのだろうか。 死んだ本人が「弱い」と彼らはせせら笑っている のだろう。 「勝てば官軍」という言葉は何と彼らには心地よいだろう。 ずいぶん前に松岡某という農水省大臣が「何とか還元水」疑惑で自殺した。 ウソにウソを重ね逃げようとしたが、ウソを隠しとおせず、自殺した。 痛ましく、気の毒だと心底おもった。 地位・名誉などにこだわらず、罪をきちんと認めるだけでよかったのに…。 当時はいまのようには政府に権力が集中していなかったのか? 彼には「忖度」してくれる取りまきがいなかったのか? どっちでもいいが、孤立の果ての自殺だった。 「何とか還元水」と比べものにならないほどのウソをつき、国民をダマしても、 現政権、与党連中には彼も赤木さんと同じように「弱い」人間だったと 思われ、もう「過
カメキチの目 私は自分を独善的な人間だと思っている。 そのことは夫婦喧嘩によくあらわれている。 恥ずかしいが夫婦喧嘩が多い(かった)。客観的に多いのかどうかはわからない (ヨソさまのことは調べたことがない。ただ自分たちのそれが少なくないのは 確かな気がする)。 今は、それなりに「学習」し「反省」をくり返してきたので、前よりは減った。 減ったが、なくなったわけではけっしてない。 ケンカの原因の99.9%(例外は子育てをめぐってのときだけ)は 私が独善的、自己中心的であること。 それがいけないことだとはずっと前からわかって いたけれど、そのことの罪ぶかさまでは、最近まで 気づかなかった。 私の場合、ここまで老いてやっと気づいたわけだ。 世は「新型コロナウィルス」でたいへんなことになっているが、「夫婦ケンカ」は ちっぽけな、取るに足らない私事であるけれど、(比べられなくても)重大だ。 ケンカの原
カメキチの目 ②「気短な人間」はやめよう 「気が短い」ことと「自由」にどういう関係があるのだろう?と思ったが、 読み終えて納得しました。 著者が本で問題にしているのは、権利としての「自由」だけでなく、感じや気分 としての「自由」もあります。 感じや気分としての「自由」は、客観的なそういう状態から生まれるけれど、 客観的には不自由な状態であっても「心は自由だ」とも言え、なかなか複雑です。 それにきょうの記事「気短な人間は…」には、後半(引用文から)で述べますが、 「主体性」や「自己決定」「自己責任」が絡んできます。 ーーーーーーーーーー 「気短な人間」…の前に、 偶然この本と前後して読んだ別な本に宮台真司という人の「不自由」について 書かれていたのがおもしろかったので紹介し、思ったことなどを少し書きます。 それによれば 【引用】 「社会学者は不自由には三種類あると考えます。 第一は端的な選択
カメキチの目 「自由」「平等」「博愛」。 フランス革命の標語のようなことをよく言うが 深く考えたことはない。 深く考えなくても、これらの反対「不自由」「不平等」「偏愛」はイヤだ! 私はこれらの言葉の「安売り」屋みたい。 言葉のイメージ、気分や感情だけが先走っている。 そうであっても、だいじなことだと信じているので 青臭くても、安くても、売り続けたい。 たまたま見つけた『不自由論』という新書本(著者は 仲正昌樹という大学教師)に強く刺激を受けた。 民主主義を標榜する日本には空気のような「自由」 というものに、深く考えさせられた。 (強く印象に残った二つのことだけ書きます。きょうは①だけ) ---------- ①「人間は自由だ」という虚構 「人間は自由」というのは虚構(フィクション)だと 著者は言う。 学校教育を受けていたときは素直な子どもだったので、私も立派な「天賦の人権」 (自然権)主義
カメキチの目 少し前に、私たちが当然のように思っていること、 信じこんでいること、前提としていることに対して そうではない(否定するわけではない)別な考え方や世界が ある、世の中は多様性に満ちていると想像してみる ことのたいせつさを書いた。 「多様性」の尊重とは、世界はさまざまであることを 理解し、そういうさまざまな「存在」を認めること。 でも、それだけではない。 ものごとのとらえ方・視点はいろいろあること、 そういうトンボのような複眼を持たなければならない (「多様性の尊重」ということは、正解《真理や真実》がいくつも存在するのか 一つだけかもしれないということとは関係ない、と私は思っている。 もっといえば、「正しい・正しくない」という次元の問題ではないとも思う) そのことが歳をとってからの10数年、とくに仕事を やめて読書に没頭できるようになったこの何年、 どの本にも述べられていた。 (
カメキチの目 「正月」を迎えて早や二週間。 (いまさらだが、「迎える」という言葉、使い方に日本語の豊かさを感じた) 「迎えた」や「改まった」というより、 「また歳とったー」という感のほうが強くある。 ---------- ■ 正月気分 (クリスマスを含め)歳の暮れというのはウキウキ。 正月は「年の初め」にふさわしい、少し厳粛さを 伴った特別な気もちになった。 (というのは子どものころだけで、大人になってからは子どものときは学校が 休みになったのと同じように《こんどは仕事が》休めるのが嬉しいだけで、 特別ではなくなった) ■ 初詣。 故郷では(近くに神社はあったが)初詣の習慣がきちんとは なく、詣でた思い出はない。 (成長してから「初詣」を知った) 初詣するようになったのは子どもが生まれてから。 多くの日本人がすることを自分もしてみたかった。 ■ 正月遊び。 子どものころは、正月の歌にあるも
カメキチの目 私はツイッターなどをしたことがない。 が、好きな禅僧の玄侑宗久さんが東日本大震災の 原発事故でご自分の寺の三春町も大きな被害を受け、 そのようすをツイッターで発信されていたのを 読みたくて、ツイッターに登録した。 が、一度もすることなくそのままになっていた。 (ときどき、ツイッター社から「カメキチさん、ツイッターしてみませんか」との メールがくる) それから数年たち、やってみようかと思ったときは 「ツイッター=トランプ」という偏見・妄想が(今も) 抜きがたくしみついており、やろうとは思わない。 先日、そのツイッターの威力、影響力の大きさを 痛感することがあった。 ---------- テレビニュースが速報で、アメリカ議会下院による 大統領弾劾決議(ウクライナ疑惑をめぐる権力乱用)を伝えた。 そのときのことだった。 トランプ大統領はおなじみの支持者集会で大勢の 人びとを前に、お
カメキチの目 可 及 其 智 不 可 及 其 愚 (そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず) 私の読んだ本は、こういうことが述べられていた。 知識はいくらでも積めるし、賢くもなれる。多くのことを知り苦行難行を 積めば、それだけのことがあるかも知れない(ないかも知れない!) それを「智」と呼んでもいいと思われるが、ただ、それで悟りにいたっても、 悟りを得たという自我を捨て去らなければ真の悟りとはいえない 誰だって、悟りの臭いがする「智」の人にはなれるが、 それを少しも感じさせない人になるのは、本当に難しいのだと思う 良寛は「大愚良寛」、親鸞は「愚禿(愚かな坊主)」と自らを称したが、 人間とか人生の何かについて「悟る」まで考え実践した彼らは己の存在の 小ささを、雄大・悠久なる自然を前に実感せざるを得ず、その気付きを決して 卑下するのじゃなくただ謙虚になり、それで「愚」と名乗ったのだ
カメキチの目 (11月5日から長く書いた、『平成史講義』の本で紹介があった吉岡忍さん 《ルポライター》の『M世界の憂鬱な、先端』という本を読んだ。 宮﨑勤による連続少女誘拐殺人事件、神戸A少年事件を取材されたもの。 じつにていねいに書かれており、事件の残忍さゆえに途中でなんども読むのを やめようと思ったけれど、著者の「この事件のことをきちんと書き残して おかなければ…」というような強烈な執念を感じ、543ページもある大著だったが 読みとおした《私にはこんな分厚い本は初めてだった》。 たくさん付箋を貼るところがあった。 読んでほんとうによかった。 長くなるけれど、書きたい。 宮﨑事件は1988《昭和63》年から1989《平成元》年にかけて、 神戸A少年事件は1997《平成9》年に起きている。 私は当時は働き盛り。仕事が忙しかったこともあり、両事件とも詳しくは 知らなかった。 知るのは、せいぜ
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