ブックマーク / charis.hatenadiary.com (5)

  • 内田樹『9条どうでしょう』(3) - charisの美学日誌

    [読書] 内田樹ほか 『9条どうでしょう』 (06年3月、毎日新聞社) (挿絵はエラスムス。『痴愚神礼賛』『平和の訴え』などがある。「自由意志」を巡って原理主義的なルターと論争した。反原理主義という点では、ミーハー人文主義者・内田氏とも通じる?) 内田氏の9条論は、別に奇説ではない。むしろ保守派も含めてかなり多くの国民が共有している「音」に近い。そうであれば、しかし、それに対する批判もありうるだろう。ここでは、『論座』2005年6月号に掲載された、法哲学者・井上達夫氏の9条論「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」と、長谷部恭男氏の憲法論の二つを参照しながら、考えてみたい。井上9条論は、内田9条論と対立するが、長谷部氏の憲法論は必ずしもそうではないと思われるからである。 井上氏の論考は、改憲派と護憲派双方の「自己欺瞞」を批判する明晰なものだが、今は護憲派批判の部分のみを取り上げる。井上氏によれば

    内田樹『9条どうでしょう』(3) - charisの美学日誌
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/06/16
    "立憲主義とは、「人間の本性に反する」からこそ、それをあえて憲法…に謳わなければならないという、パラドキシカル…な人間の知恵" →長谷部憲法学と井上達夫9条廃止論とを比較して前者に軍配を上げた感じ(こなみ
  • 小林よしのり『靖国論』(17) - charisの美学日誌

    [読書] 小林よしのり『靖国論』『戦争論』(幻冬舎) (挿絵は、速水御舟『炎舞』、1925) 小林よしのり氏の『戦争論』では、「特攻隊員の死」が大きな役割を果たしている。『戦争論』第3巻・第15章の「特攻隊」論で小林氏は、特攻隊という「戦法は外道」つまり誤った戦略だが、特攻隊員の「精神」は決して誤っていないという。例えば高木俊朗『特攻基地知覧』(角川文庫)を、氏は次のように批判する。高木氏は「特攻を<戦法>からだけでなく、<精神>からも犠牲者として描ききることによって、特攻隊員たちの主体性をいっさい認めないのだ」(p276)。「特攻という戦法自体が、外道だった。しかし、だからと言って、特攻隊員たちが<だまされていた>わけではない。・・・あの壮大な負け戦の中で、どうしても強烈に輝くものこそが、陸に海に散った兵たちの闘争心である」(p281)。 特攻隊員たちがどのような意味で戦争の「犠牲者」で

    小林よしのり『靖国論』(17) - charisの美学日誌
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2014/06/13
    "「生から死へ」という極限状況に置かれた彼らの精神を、抽象的な「主体性」「闘争心」へ還元することは、彼らの精神のある一断面をもってその精神の全体に置き換える" →人間の死の"美化"の手口について
  • 濱口桂一郎氏へのお答え - charisの美学日誌

    [議論] 濱口桂一郎氏へのお答え (写真は、リベラルアーツの源流の一人プラトン(左)。体育、音楽、文芸、算数、幾何、天文を学ぶことの重要性を説いた。) 濱口桂一郎『新しい労働社会』についての私の書評に対して、濱口氏がご自分のブログで丁寧なコメントをくださった。そのことを感謝するとともに、こうして著者と直接意見の交流ができるブログは、つくづく有難いものだと思う。↓ http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html 書における労働と雇用をめぐる濱口氏の現状分析は見事なものであり、その部分については、コメントで氏が述べられたことも含めて、私には異存はない。私が氏と大きく見解を異にするのは、大学教育が持つべき「職業的レリバンス」についてであり、コメントによって氏の見解がさらに詳しく示されたので、再度私の見解を述べ

    濱口桂一郎氏へのお答え - charisの美学日誌
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2012/05/17
    "法学部・経済学部卒ならば、長時間労働の強制に少しも疑問を抱かず、無邪気な企業戦士として使いやすいが、文学部卒ならば世俗に批判的な「知の力」なぞもっている可能性があるから使いにくいのだ" →面白い。
  • 上野修『スピノザ』 - charisの美学日誌

    [読書] 上野修『スピノザ −「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版、06年7月) (写真は、スピノザ像) (実家の父を介護していた母が倒れて入院したので、少々ブログの更新が遅れています。) 「シリーズ・哲学のエッセンス」の『スピノザ』が刊行された。焦点を『神学・政治論』に絞った興味深いである。『神学・政治論』は、『聖書』を丁寧に分析したで、ある意味では『エチカ』以上に面白いともいえる。私は大学院生時代に、あの少し大きな古い活字の岩波文庫で読んだときの感激を忘れられない。『聖書』を、「聖なる文書」としてではなく、きわめて冷静に一つのテクストとして分析し、各文書の成立の前後関係や、個性豊かな預言者たちのキャラを縦横無人に論じるスピノザの醒めた眼差しに感心した。 『神学・政治論』は、1670年に刊行されると、ユダヤ教、キリスト教などの宗教保守派はもとより、もっともリベラルであった

    上野修『スピノザ』 - charisの美学日誌
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2012/05/10
    "預言者モーゼは「無知」だったからこそ、策略や欺瞞とはまったく無縁で、あれだけの力を発揮できたのだと、スピノザは言う""智謀に富んだアレキサンダー大王とは、まったく異なるキャラの持ち主" →上野修先生
  • 田島正樹『読む哲学事典』(2) - charisの美学日誌

    [読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書、5月21日刊) (写真は、ヘラクレイトス像。) 書のコメントを続ける。「運と偶然」「自由と問題」「質と時間」などの項目は、書の実質的な主題である「新しい意味の生成」が、明示的に扱われている。まず、田島氏がよく用いる、囲碁の卓抜な比喩から見ていこう(p63f)。囲碁には「振り代わり」と呼ばれる戦略の大幅な変更が起こりうる。以前には戦略の中心であった石が、捨石に変わったり、それまで失敗と思われた布石が、新しい構想の下では、強力な布陣として生き返る。つまり碁で打たれる石の一つ一つは、その意味が初めから決まっているわけではなく、碁の進展とともに、時間的に後になって、ようやく最初の石の意味が打ち手によって発見される。このような「意味の新しい生成」こそ、「自由」の核心にあるものだと、田島氏は考える。 「生成した新しい意味」は、それまでの目論見や

    田島正樹『読む哲学事典』(2) - charisの美学日誌
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    haruhiwai18 2012/05/06
    "「自由」とは、ある意味では「問題の解決」なのだが、それは、解かれて初めて問題そのものが理解できるような「解決」のことである。""「問題解決」が「実体」""田島氏の「反実在論」の要をなす概念" →なるほど。
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