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坂本龍馬が大政奉還の功労者というのは納得いかない。龍馬が慶応3年(1867)10月9日に上京したときには、薩土の間で大政奉還建白の合意がすでに成立していた。後藤象二郎の提案に対し、9月27日に大久保一蔵が、小松帯刀が薩摩藩を代表し… https://t.co/5PZ4oa8G6N
昨夜の大河「青天を衝け」で桜田門外の変が描かれた。昨日、事件がニューヨークタイムズ紙(当時は前身のニューヨーク新聞)を通じて世界に伝えられたことを紹介した。記事は手許にあるのだが、著作権の関係でアップできない。日付は1860年7月10日付、旧暦だと万延元年6月22日。#青天を衝け
「遠加美講」は神道だというが、陰陽道などを混ぜ込んだ民間の新興宗教だったようである。 あと、従兄の尾高純忠からアヘン戦争の書物を渡され、渋沢は夜を徹して一心不乱に読みふけっていたが、その後の江戸遊学から高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち計画につながる伏線だろう。#青天を衝け
昨日の古文書塾てらこや講座「大久保利通の手紙を読む」は岩倉使節団の訪米のところを読んだ。大久保の講座だったが、米国を実際に見た木戸孝允の感慨や意見が興味深く、ちょっと感動した。まず使節団は米国官民から盛大な歓迎を受ける。サンフランシスコでは、じつに4万人の市民が集まったという。
徳川慶喜は後藤象二郎→松平春嶽→中根雪江のルートで、薩摩藩を中心とする王政復古政変を事前に知っていた。つまり、慶喜は自分がターゲットではないのを承知していたうえに、ターゲットとなった会桑にも知らせていない。これは家近良樹さんがかな… https://t.co/oNIWm3H8fZ
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