タグ

2006年2月6日のブックマーク (6件)

  • 【埋】信頼を作る「ニンゲン」のページランク - 記号化とリンクファーム

    日曜コラムです。こんばんは。 今日は ニンゲンのSEO について考えてみましょう。 「ははぁ、SNSのリンク関係のことを言っているんだな?」 と想像をめぐらした方、まずますいいトコ付いてます。 が、実際はもうちょっと原始的なお話を考えています。 はてなのnaoyaさんが、Amazon成功の秘訣についてコトあるごとに、 Amazonの強さの秘訣 は色々あるが、一番大きなファクタは 物流革命でも、知的なリコメンドでもなく、SEOにある! と声を荒げています。 ■はてながこだわるWebサービス提供の音 http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000050150,20084185,00.htm Google全盛期に入る中、信頼できる情報を浮かび上がらせる アルゴリズムに 「ページランク」、つまり「リンクされた数」 を使うことが非常に有効であるという認

    【埋】信頼を作る「ニンゲン」のページランク - 記号化とリンクファーム
  • 格差社会を議論する前に

    NHKの『日曜討論』で与野党若手議員の討論があった。格差社会をめぐる議論を聞いていて不思議に思った。社民党の辻元清美が「結果の平等以前に、機会の不平等があるのではないか。給費を払えない子どもが増えているし、月十万円以下でやりくりしている家庭がある一方で、何万円もかけて塾に通っている子どももいる。そもそもスタートラインから違う」という趣旨の発言をし、また小泉総理の「成功した人を妬むのはよくない」と発言した姿勢を批判した。 与党からは「小泉内閣以前から非正規雇用が増えている。かつてのような『ほどこしの政治』はよくない。改革はまだ途上だ」などの発言があったが、生活保護受給者は「ほどこし」を受けている人たちなのだろうか。「努力した者が成功できる社会」というセリフは「勝ち組」が得意とする言い方だ。努力するもしないも、最初からスタートラインが違うという「格差」を認めたくないという論調は、政治家の育ち

  • ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか - H-Yamaguchi.net

    よく、「ネットでのコミュニケーションはバーチャルなもので、リアルな関係とはちがう」といったいいかたをする人がいる。「まがいもの」だ、みたいなニュアンスだ。いいたいことはわからないでもないが、たいてい見下した説教臭い論調なので、それだけで辟易する。しかし、感情的に「きらい」とかいってるだけだと説得力がないので、少し「理論武装」してみようと思った。といっても、社会学者さんとか哲学者さんとかが好きそうな高邁なご高説じゃなくて、せいぜいが思いつきレベルの屁理屈なんだが。 「ネットはバーチャル」論というのが要するに何なのかをちょっと考えてみると、どうも2つぐらいありそうな気がする。ひとつは、ネット上の人格は現実の人格と異なっているし、身元が確かでない人のいうことを不用意に鵜呑みにするのは危険だ、といったコミュニケーションの相手方に関すること。もうひとつは、ネットを介したコミュニケーションでは当の気

    ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか - H-Yamaguchi.net
  • jkondoの日記 - 仕事は非ルーチンワークから片付けよう

    仕事には毎日毎日の定常業務・いつもの仕事=ルーチンワークと、突発的な仕事=非ルーチンワークがあると思いますが、時間の使い方として非ルーチンワークの方から手をつける方が良い結果になることが多いんじゃないかとふと思いました。 非ルーチンワークというのは、朝突然「これをやろう」とアイデアを思いついたとか、社内で話しをしていて急遽行う事になった、みたいなタスクで、こういう仕事が発生すると「まあ待て。とりあえず今日やるつもりだったいつもの仕事を終わらせてから取り掛かろう」という人と、「なんだか面白そうだし新しい事をやってから残りの仕事を片付けよう」という人に分かれるような気がします。 ところが、「定常業務を終わらせてから手をつけよう」と思っていても、定常業務は仕事時間を全部使い果たそうとする性格がありますので(ありますよね、何でなんでしょう?)、結局その日には手がつけられない、みたいな事になりがちで

    jkondoの日記 - 仕事は非ルーチンワークから片付けよう
  • Zopeジャンキー日記 :規格外の東大名誉教授、西村肇

    Rauru Blogの「確かに、まず日語ではあるが」に引用されていた、以下の言葉にピンとくるものがあった。 <したがって結論として言えば、私は単純に日語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う>。 私も、日語は

  • ログイン - はてな