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ブックマーク / blog.tatsuru.com (8)

  • そのうち役に立つかも - 内田樹の研究室

    河合塾大阪校で講演。 予備校生たちをお相手に一席。 お題は「日人はなぜ学ぶ意欲を失ったのか?」 せっかくの休日に私の講演を聴くためにわざわざご登校くださった奇特な予備校生たち200人を前に、どうやったら受験勉強が楽しく捗るかというお話をする。 あらゆる受験生は「なぜこんな勉強をしなくちゃいけないのか」という根源的懐疑につねにとらわれている。 当然ですね。 もちろん、受験勉強の必然性はわかっている。 それができないと大学に入れない。 いくつかの教科に現実の実用性があることもわかっている。 例えば、英語ができると英語話者に道を尋ねられたときに、「道を尋ねられた」ということがわかる。古文ができると埋蔵金の隠し場所を書いた古地図などを解読するときに有用である。 だが、必然性と実用性を理解しているだけでは、自分の知的パフォーマンスを向上させることはできない。 受験生としては、そういう外づけ的な理屈

  • 内田樹の研究室

    ローカリズム宣言 地方移住のための情報誌「TURNS」で2年間ほど連載していたインタビューを採録しました。グローバル資主義の終焉、少子高齢化による過疎化と限界集落化という現実を踏まえて、「地方移住・帰農・山河の回復」というオルタナティブについて提言をしております。 昨日うかがった話では、地方移住支援のためのある NPO の窓口を訪れた人は去年一年で 25,000 人、10 年前の 10 倍にのぼるそうです。半数以上が 20 代 30 代とのこと。 この趨勢はもう止まることがないでしょう。 デコ/2017-12-07 変調「日の古典」講義 安田登さんと二人であちこちで行った対談の集成。話題は『論語』から能楽まで多岐にわたります。安田さんが何か驚くべきことを言うとこちらも負けじとさらに驚くべきことを言い、安田さんがそのような挑発を受け流すはずもなく、さらに驚くべき話で切り返す・・・という悪

  • またインタビュー - 内田樹の研究室

    願寺の出している「サンガ」という雑誌のインタビューで三人の住職さんとカメラマン一人がおいでになる。 「お西さん」の出している「ジッポウ」の仕事もしているし、「寺門興隆」にはついこの間バリ島で昼寝をすると気分がよろしいというようなエッセイを書いた。 なぜか、仏教系メディアからのお仕事が多い。 どうしてなのであろう。 私の考えていることのどこらへんが仏教的に「フックする」のか、自分ではよくわからない。 今回のお題は「学びと労働」である。 どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。 それは「消費文化」のせいであるとお答えする。 「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。 どんな家に住み、どんな家具を並べ、どんな服を着て、どん

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    hero130 2008/05/19
  • 親族の基本構造 - 内田樹の研究室

    大学院では今期は「家族論」をやっている。 今回のお題は「父親」。 発表担当のマスダさんがいろいろな論者の家族論・父親論を引用してくれたので「父親をめぐる言説史」を一覧できた。 日人の家族論の多くがサル学の知見に依拠しており、精神科医たちまでが霊長類の「延長」として家族をとらえていることに私は一驚を喫した。 人間の家族はゴリラやチンパンジーの「家族」とは成り立ち方が違う。 レヴィ=ストロースは家族論を語るときの必読文献だと私は思うのだけれど、家族論者のどなたもこの人類学者の知見には特段のご配慮を示されておらないようである。 よい機会であるので、レヴィ=ストロースの「親族の基構造」の考想を簡単にご紹介しておこう。 レヴィ=ストロースはラドクリフ=ブラウンの先行研究をふまえて、親族の基単位が四項から成ると論じている。 「ラドクリフ=ブラウンによれば、伯叔父権 (avunculat) という

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    hero130 2008/05/17
  • 一人では生きられないので死んで貰います - 内田樹の研究室

    中高部の礼拝に呼ばれて、朝七時起きで学校へ。 8時半から中高の700人ほどの生徒たちに「隣人愛」とは何かということについて15分「奨励」というものを行う。 私が選んだ聖句は『創世記』2-18。 「その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」 人間は一人では生きられないように設計されている。 「一人では生きられない」から共生するというのが人間のデフォルトである。 そして、「一人では生きられない度」の高さがその人間の成熟度と相関していると私は考えている。 赤ちゃんは一人では生きられないが、母親がひとりいれば、「赤ちゃん的必要」の過半は満たされる。 子どもが成長すると、「友だち」が必要になる。「先生」も必要になる。「好きな異性」も必要である。 青年になると、「天敵」とか「ライバル」とかひとひねり効いた「友だち」が必要にな

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    hero130 2008/05/17
  • 学校の怪談ほか - 内田樹の研究室

    朝一で大学のチャペルアワーでお話をする。 いかにもころりと忘れていたのだが、前日たまさか宗教センターのおねいさんに廊下で「明日よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げられたので、私はそのような礼を言われるいわれはないのである旨を申し上げたら、翌日のお話の担当に決まっていて、私はそれをグーグル・カレンダーに入力し忘れていたのである。 危ういところであった。 朝ご飯をべながらぱらぱらとコンコルダンスをめくって「学びと畏れ」にかかわる箇所を探して申命記4-10を「日の聖句」に選ぶ。 インターネットというものがなかった時代の遺物であるが、便利なものである。 大学で10分間「学びと畏れ」についてお話をする。 どうして「学校の怪談」というものがあれほど広く普及しているのに、「会社の怪談」というものは存在しないのか。 それは学校の「建築物としての構造」が「学びの構造」の比喩になっているからである。

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    hero130 2008/05/17
  • 小学生に英語を必修させる必要があるのか? - 内田樹の研究室

    文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。 愚かなことである。 日語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。 特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。 英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。 論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。 「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。 これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。 けれども、そのような学生たちの教場での

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    hero130 2008/05/17
  • 御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと - 内田樹の研究室

    養老孟司先生が書評で取り上げてた月洋『日人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2008年)を読む。 御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。 同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。 そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。 そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。 それから島﨑徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについ

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    hero130 2008/05/17
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