当時、曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。 その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、軍事的に極めて重要な地域となっていた。 このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策とし策略を説いた。その内容は「曹操の能力、権勢は大きくこれに争うことはまったく不可能」であるとして、荊州の交通の便、益州の豊かさを具体的に語り、「今の荊州の主では国を守ることができず、天が劉備にこれを与えているも同然で、益州の統治者である劉璋は暗愚で弱く、益州の北には張魯という脅威が存在しており、士人たちは明主を求めているから、この二州を領し、南方の夷越族を慰撫し孫権や西方の諸戎らと結んで守りを固め、曹操に対抗
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く