当時の木造軍艦の寿命はおよそ8年で、文久2年(1863年)ころには軍籍をはずれ、武器がはずされた。これには、ちょうど蒸気軍艦が、外輪式から内輪式(スクリュー)へと移行した時期だったことも関係すると考えられる。つまり外輪式は旧式になりつつあり、プロイセン海軍の主力艦としてはふさわしくない、とされたようである。 公売された結果、イギリス商人が手に入れ、ロンドンにおいて修理。新たに武装が施され、大砲は左右にイギリス製の40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製の榴弾砲を2門、前面に50斤ライフル砲1門を備えた。また船首を飾っていたダンツィヒ市(現在はポーランド領グダニスク)の象徴である女神像は鷲に変えられ、イーグル号と名付けられた。 外輪式は内輪式にくらべて、馬力のわりに速力が出ない。そのため(当初からか改装時かは不明であるが)、コルベットとしては小型の船体に400馬力という強力なエンジンを積んでいたもの