歴史に関するhgtのブックマーク (4)

  • 「否定論」への「寛容」はありえない  - 過ぎ去ろうとしない過去

    インターネットがコミュニケーションのあり方を革命的に変容させるのだ!というITピューリタン的発想にはまったく組しないのだが、もし、インターネットがわれわれの生活世界におけるコミュニケーションに影響を与えているとするなら、それは、「無知」がますます言い訳として通用しなくなったということがあげられるかもしれない。誰でも簡単に情報にアクセスできることは、「無知」であることと「悪」であることの区別をつきにくくしている*1。たとえば、われわれは、専門的な研究会に出席したり、難解な学術書をいくつも読みこなしたりせずとも、1クリックで南京大虐殺があったということを知ることができる。また、その否定論が、いかにロジックとして稚拙であり、学問的な真剣さに事欠いているかを知ることができるのである。 さらに、その否定論が打ち出す「南京問題」なるものが、いかに中国に対する蔑視感情と自民族中心的なナショナリズムを背景

    「否定論」への「寛容」はありえない  - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような

    「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
    hgt
    hgt 2008/12/19
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    仲春はゆっくりと通り過ぎる 寝て起きたら3月である。今日の東京の最高気温は20度を超えている。正月のインフルエンザが完治して、これでやっと健康で文化的な年度を始められるぞ、と意気込んだのも束の間、今度は原因不明の高熱を出して1週間寝込んだ。 脳がグツグツ煮える音が聴こえそうなほど…

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    hgt 2008/03/30
  • 「少し調べて書く」人の耐えられないあたまのわるさ - hokusyu’s blog

    http://norevisionism.g.hatena.ne.jp/bbs/2 わたくし様 lovelovedogさんが安仁屋政昭氏の議論に対して異論を投げかけるのは自由ですが、ことキーワードの問題に関する限り、もしwikipediaの基準に照らすならば、安仁屋氏の著作は沖縄戦の専門家が書いた学術的な研究書として、「信頼できるソース」として扱われるのに対し、あなたの異論は「独自研究」として扱われます。従って、いかにあなたが不同意な記述であっても、専門家の議論に即して書かれたキーワード編集には妥当性があるのであって、それに対してあなたが専門家の議論、あるいは専門家集団における通説的な議論を無視して、(あるいは、非・専門家の論説などには依拠しているのかもしれませんが)あなたの「独自研究」をキーワード登録しようとしたのは、キーワード登録の基準論(少なくとも学術的なキーワードに関してはwiki

    「少し調べて書く」人の耐えられないあたまのわるさ - hokusyu’s blog
    hgt
    hgt 2008/03/25
    事実は(俺が)確認できないメソッド
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