You are about to permanently delete this entry. When you delete an entry, you also delete any comments and trackbacks associated with it. This action cannot be undone. Delete|Cancel 私がその昔、秋葉原少年だった頃(今のアキバ系とちょっと違うとは思うのだけど、まぁ普通の人から見ると同類項だったのかな?)秋葉原にはアスターインターナショナル、コンピュータLab、若松通商、ビットイン、本田通商、そして新宿のムーンベース、タンディ・ラジオシャック、御苑前のアスターインターナショナル本店などに当時のマイコン少年は毎日たむろしていたのでした。 当時はTK-80、KIM-1、SCAMP、HitachiやL-Kit16などの1
このサイトでもご案内した「アキハバラという未来~未来学パラダイムの再構築~」(2008年11月22日、秋葉原コンベンションホール)というシンポジウムに参加させてもらった。1968年、未来予見のための学問的可能性の追及を目指して日本未来学会が設立された。主催の新日本未来学会は、これが2007年に名称変更したものだそうである。 1968年といえば、基調講演で森川嘉一郎氏(『趣都の誕生』著者、明治大学国際日本学部准教授)も指摘されたとおり、映画『2001年宇宙の旅』が米国で公開された年である。翌1969年には、ケネディ大統領の「1960年代に人類を月に立たせる」という公約どおり、アポロ11号が月面着陸に成功。まだ、人々が未来に大きな夢を感じとっていた時代である。 私も、「未来」という言葉を聞いて反射的に「過去」を振り返ってみようと思った。パネリストとして参加させてもらったわけなのだが((シンポジ
完成品の『TK-80』を掲げる、開発者の渡邊和也氏。 1996年に刊行した『計算機屋かく戦えり』という本を再構成して、新書として出すことになった(アスキー新書『日本人がコンピュータを作った!』)。新書編集部のHさんから最初に企画を聞いたときには、「なぜ?」と思ったが、原稿を校正しているうちに「いまこそ読んでほしい本だ」と気がついた。 日本のコンピュータは、米国よりも10年遅れて動き出す(ENIACが1946年、日本のFUJICが1956年である)。その間に、米国プリンストン高等研究所の「ISA計算機」の設計が公開されて、世界中でそのコピー機が作られる。しかし、オキュパイド・ジャパンの日本だけは蚊帳の外だった。 そんな状況で、日本はどうやって「コンピュータ」というまったく新しい技術をものにしたのだろうか。 『計算機屋かく戦えり』は、日本のコンピュータのパイオニアたちのインタビュー集だが、どち
広島市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、ライターに。ノンフィクションのさまざまな分野を取材対象としてきたが、次第にパーソナルコンピューターの比重が高まる。ボイジャーのエキスパンドブックを見て電子出版の可能性を本気で信じ込むようになり、「パソコン創世記」と名付けたタイトルを、コンピューターで読むことを前提に制作。このブック上の記述を、インターネット上のさまざまなホームページにリンクさせていくという作業を体験してからは、電子本への確信をさらに深めている。 紙で出してきた著書に、「パソコン創世記」(旺文社文庫版、TBSブリタニカ版)、「宇宙回廊 日本の挑戦」(旺文社)、「電脳王 日電の行方」(ソフトバンク)、「青空のリスタート」(ソフトバンク)、「本の未来」(アスキー)がある。
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