[ 1 ] 〘 名詞 〙 ( 「しゅう」は接尾語 ) 男色を売る者。野郎。若衆。[初出の実例]「抑、彼野州(ヤシウ)のありさま、〈略〉見るからしほらしく」(出典:仮名草子・都風俗鑑(1681)三)[ 2 ] 下野(しもつけ)国の異称。現在の栃木県にあたる。〔黒本本節用集(室町)〕

江戸前・中期の遊女。高雄とも書く。江戸吉原京町1丁目の妓楼三浦屋四郎左衛門抱えで,この名を名乗った遊女は7人(庄司勝富『洞房語園』,原武太夫『高尾考』など)または11人(山東京伝『近世奇跡考』,山東京山『高尾考』など)あったといい,いずれも吉原を代表する名妓として知られ,京都の吉野太夫と並称された。三浦屋ではその代数を数えなかったといい,そのため伝によって代数や通称にも異同が大きい。著名なのは以下の通り。 ①妙心高尾。初代といわれる。寛永(1624~44)ごろ,元吉原時代の人で,隠退後尼となって妙心を名乗った。子連れで廓内を道中した子持高尾と同一人物とする説もある。②仙台(万治)高尾。2代といわれる。歴代高尾中でもっとも知られる。仙台藩主伊達綱宗の意に従わず,隅田川の三又で惨殺されたという。伊達騒動に関係づけられた巷説が生まれ,「伽羅先代萩」「伊達競阿国戯場」などの浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれ
くたび・れる【草臥】 〘 自動詞 ラ行下一段活用 〙 [ 文語形 ]くたび・る 〘 自動詞 ラ行下二段活用 〙① 体や頭を使い過ぎて疲れる。疲労する。[初出の実例]「さまざまのつとめに身もくたびれにけるにや」(出典:古今著聞集(1254)一六)「なあにあればかり歩いて草臥(クタビレ)るものかい」(出典:滑稽本・古朽木(1780)一)② ( 特に、動詞の連用形に接続して ) その動詞の示す行為を長時間にわたって行なって、その結果、疲れていやになる。「待ちくたびれる」など。[初出の実例]「隆円もくちすきほどにかたりくたびれて」(出典:文机談(1283頃)五)③ 人が年老いたり、物などが長く使われたりしたために古びてみすぼらしくなる。[初出の実例]「鏡を見て、くたびれた也。何事をせんするも、年のわかきときのこと也」(出典:中華若木詩抄(1520頃)五)「ちと疲労(クタビ)れた博多の帯に」(出典:
ふざ・ける [動カ下一][文]ふざ・く[カ下二] 1 おどけたり冗談を言ったりする。「―・けて怒ったふりをする」 2 子供などがたわむれて騒ぐ。「子犬が―・けて跳ね回る」 3 男女がたわむれる。いちゃつく。「人前もはばからず―・ける」 4 ばかにする。「―・けたことを言うな」 [補説]「巫山戯る」とも当てて書く。 [類語](1)じゃれる・戯れる・はしゃぐ・たわける・じゃらす/(4)からかう・冷やかす・茶化す・おひゃらかす・おちゃらかす・混ぜ返す・おちょくる・なぶる・もてあそぶ・玩具おもちゃにする・野次る・野次を飛ばす・洒落しゃれのめす・半畳を入れる・茶茶を入れる・揶揄やゆ・玩弄 ふざ・ける【巫山戯】 〘 自動詞 カ行下一段活用 〙 [ 文語形 ]ふざ・く 〘 自動詞 カ行下二段活用 〙 ( 「巫山戯」は当て字 )① たわむれる。たわける。(イ) 遊里などで、浮かれて騒ぐ。遊び騒ぐ。[初出の
さ‐おとめ‥をとめ【早乙女・早少女・五月少女】 〘 名詞 〙 ( 「さ」は接頭語 )① 田植えをする少女。田植え女。《 季語・夏 》[初出の実例]「さをとめの山田の代(しろ)におり立ちていそぐ早苗や室(むろ)のはや早稲(わせ)」(出典:永承六年内裏根合(1051))② おとめ。少女。[初出の実例]「磯菜摘む海士のさをとめ心せよ沖吹風に波高くなる」(出典:山家集(12C後)下)③ 花田植え、大田植えなどの田植え行事や、各地の神社の田植え神事で、それに奉仕するおとめ。田の神に仕える聖なる女性としての印象をとどめる。川柳では特に、大阪市住吉区の住吉神社の御田植祭に奉仕した泉州(堺市)の乳守(ちもり)の遊女をいう。[初出の実例]「うかれ女も早乙女となる神事也」(出典:雑俳・柳多留‐六五(1814)) そうとめさうとめ【早乙女】 〘 名詞 〙 ( 「さおとめ」の変化した語 ) 陰暦五月頃、田植えに従
〘 名詞 〙 ( [英語] suggestion ) 示唆(しさ)。暗示。提言。[初出の実例]「何かしら安心のサジェスションは無いかと悶え苦む現代の児を」(出典:茗荷畠(1907)〈真山青果〉四)
輓歌とも書く。野辺の送りのとき柩(ひつぎ)の車を挽(ひ)きつつうたう歌。中国では早くから詩体の一つとされ,《文選》(6世紀)が魏・晋の作品5首(五言詩)を収める。起源については諸説があるが,現存最古の作品は,ふつう漢初斉の田横が漢の高祖に仕えるのを恥じて自殺したとき(前202),門人たちが悲しんで作った葬送歌だという。もと1首だったのを,漢の武帝のとき音楽庁長官李延年が薤露(かいろ)と蒿里(こうり)の2曲に分け,前者を王侯貴人の,後者を士大夫庶民の挽歌としたといわれる(晋の崔豹《古今注》)。〈薤(おおにら)の上の露,何ぞ晞(かわ)き易(やす)き,露は晞くも明朝更に復(ま)た落つ,人死して一たび去らば何れの時か帰らん〉(〈薤露〉)とうたうように,2曲はいずれも人の命のはかなさを恨む。この伝統を受けついだ六朝以後の挽歌は,主として皇族・高官あるいは知人の死をいたんで作られ,またときには宴会の座
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