梶谷氏が某誌某特集での「親中」左翼知識人の書き物を「日本人による中途半端な体制擁護の論考」と大変に痛烈な一言で切って捨てておられる。某誌を見ているわけではないが、氏のこれまでのたとえば孫歌ならびにそのシンパへの酷評ぶりなどから見ても非常に納得のいくご発言ではある。この感覚は塩川伸明氏が和田春樹氏を批判した際のそれと通ずるものであることは言うまでもない。 それにしてもぼくも世の中には「大人の事情」というものがありうること、現状では例えば「中国をたたいていればそれでよいというものではない」ということ自体はもちろん否定しない。たとえば大屋雄裕氏が「おまえは中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない」とおっしゃる時に、その言葉じりを取る気にはなれない。 しかし、ケツの舐め方にもいろいろあるだろう。仮に大屋氏も某誌もどちらも「中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない」としても、そこには
冷静に「合法的に」論理的に事を進めようとする「文明国」日本と、感情的で「不法で」非論理的な「野蛮な」敵対者という構図が大好きな人がいます。 たとえば竹島教科書記載問題をみてください。彼らの韓国の抗議者にたいする視線は、まさに「文明国の」植民地主義者が「野蛮な」現地人を見る視線です。つまり、上から目線の侮蔑です。あるいは捕鯨問題でもいいでしょう。感情的な反捕鯨国とデータに基づいている論理的な日本という図式でこの対立を見ようとする人はエントリのブクマなどを見ればそこかしこにいますね。あるいは死刑問題です。死刑存置のほうがどちらかといえば「野蛮」とみなされるようなこの事例でさえ、彼らはキリスト教という宗教的理由で廃止した「狂信」国と「無宗教の」合理的精神に満ち溢れた日本という対立に転化させてしまうのです。本当は自身の溜飲を下げたいがためだけだとしてもです。 このような二分法は今にはじまったことで
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