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2006年8月12日のブックマーク (2件)

  • ■ - 旧tototo

    ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えられなければならないということはわかるけれども、そのスタイルでどうして、「プレイヤーという存在」というテーマについて学術的に考えることができるのだろう? というジレンマを、僕は無視できないでいるのです。 http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20060808 クリティカルな話だと思うのでリンク。 前にRGNを主催されてる井上さん(id:hiyokoya)や先日発表されてた茂内さん(id:AYS)や他何名の方々かと夕をご一緒させていただいたときに、「ゲームを学問で取り込もうとしたら<アート>みたいな形でしか取り込めないでしょう」て不遜にも放言したことがあります。海の向こうのゲーム研究者やゲーム開発者がゲームについて語ると「ゲームはアートだ」と言いがち*1、という話を受け

    ■ - 旧tototo
    hiyokoya
    hiyokoya 2006/08/12
  • ■ - 森の路はずれ(避難所)

    ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えられなければならないということはわかるけれども、そのスタイルでどうして、「プレイヤーという存在」というテーマについて学術的に考えることができるのだろう? というジレンマを、僕は無視できないでいるのです。 「プレイヤーという存在」というとき、そのプレイヤーとは、暗黙のうちに論者自身のことではないのですか。観察対象としての第三者群(データ)と、演出・ゲームデザイン論。前者であるのだというなら(そういうデータがあるというのなら)それはずいぶん滑稽であり、後者であるならそれは「プレイヤーという存在」というより、製作者側が任意に想定する「プレイヤーという規定(枠)」をめぐる議論でしょう。 それは決して存在のことじゃない。存在というのはそもそも自意識であって、データや技術論として取り出しうるものじゃないはず

    ■ - 森の路はずれ(避難所)
    hiyokoya
    hiyokoya 2006/08/12