72年のミュンヘン五輪ではパレスチナ武装勢力によってイスラエルの選手ら11人が犠牲になるテロが発生。76年のモントリオール五輪は警備費の増大などで過去最大の12億ドルの赤字を計上し、地元自治体はその後、借金の返済に30年近くを要した。五輪の開催そのものがリスクとみなされるようになり、84年のロサンゼルス五輪の開催地の選定にあたっては競合する候補地が最後まで現れなかった。 そして東西冷戦下の80年にモスクワで開かれた夏季五輪。前年のソ連によるアフガニスタン侵攻に反発する西側諸国が集団ボイコットを決めたことで、五輪のイメージは一段と傷つけられる。この苦難の時代にIOC会長を務めたキラニン卿が退任直前のモスクワ五輪閉会式で「ホロコースト(大量虐殺)が訪れる前に、世界のスポーツ関係者は結束を」という悲痛な呼びかけを行ったのは、今も語り草になっている。 財源確保へ、スポーツビジネス界の大物を起用 モ