差別や暴力の話してるときに「中立」とか「フラット」とか「客観的」って言葉を使う人がマイノリティー側(被差別側)に立っているのを見たことがない。やましさをごまかすための言葉。
![小川たまか🐱『告発と呼ばれるものの周辺で』 on Twitter: "差別や暴力の話してるときに「中立」とか「フラット」とか「客観的」って言葉を使う人がマイノリティー側(被差別側)に立っているのを見たことがない。やましさをごまかすための言葉。"](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/babb62e3c083e0597d65015cf2f33fed9088521a/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fprofile_images%2F1575138695656505344%2Fp33iUYx4.jpg)
サブカルチャー。この言葉を聞いて思い浮かべるものは、恐らく人によって様々だろう。ひとつの社会における主流文化に対して、その社会の一部の人々によって共有される副次的な文化……というような意味合いが、この言葉の一般的な使われ方ではある。 ただ、戦後日本社会においては、サブカルチャーという言葉はある独特のニュアンスのなかで用いられてきたと私は考える。一言で言ってしまえば、それは文化の脱歴史化・非政治化とでも言うべき、「脱臭化」のニュアンスである。 私=コメカと相方であるパンスとで構成される批評ユニット「TVOD」による初の著作『ポスト・サブカル 焼け跡派』は、時代を象徴する様々なミュージシャン・アーテイストに言及し、戦後日本のサブカルチャーを取り巻く文化的な精神史を描くことを試みた本だ。そしてその精神史の探求は、先述したような「脱臭化」の作法を活用し消費社会的状況を謳歌した日本が、いつの間にか「
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