武蔵国埼玉を中心に各地の神社を紀行するサイト
国宝姫路城のある姫路駅からJR山陽本線で4駅大阪寄りに、宝殿(ほうでん)という名の駅があります。子供のころ、変な駅名だなと思った記憶があるのですが、その駅名の由来となったのが同駅に近い生石神社にある“石の宝殿”。 ちなみに、近いと言っても宝殿駅から生石神社までは徒歩で25分くらいかかりますので、タクシーを使った方が良いでしょう。 生石神社は小高い岩山の上にあり、写真のように麓にある鳥居から真っ直ぐに石段が神社に向かって伸びているのが目印。境内にある石の宝殿をご神体として、お祀りしています。 階段を登り神社の境内に入ると、すぐ正面に石の宝殿への入り口があります。目に飛び込んできたのは、岩山を刳り貫いて作られた窪地の底に置かれた巨大な石の建造物。狭い空間にあり写真を撮るのがとても難しく、広角レンズを用いているので上の写真では形がゆがんで見えますが、高さ約5.5m、横約6.4m、縦約4.7mの直
論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、宮武実知子氏による論考「沖縄の護国神社」を4回に分けて転載する。かつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵だった宮武氏は、聞き取り調査で訪れた沖縄の護国神社の権禰宜(現宮司)と結婚。現在は沖縄県宜野湾市に暮らす。本論考はいわば「元ミイラ取りによる現地レポート」だと宮武氏は言うが、異なる宗教文化を持つ沖縄にある護国神社とは、一体いかなる存在なのか。その知られざる歴史を紐解く。 (写真:[図1] 米海兵隊が1945年6月28日に撮影した護国神社。「沖縄の影響を受けた典型的な日本建築」という説明文が付いている。拝殿の屋根に砲弾の穴が開いている。提供:沖縄県公文書館) 二〇一六年の正月、那覇市奥武山(おうのやま)の沖縄県護国神社には初詣の長い列が伸びた。 護国神
二所山田神社 明治40年に二所神社と山田神社を合祀し、社号を二所山田神社と改める。 二所神社は899年に出雲大社の神々を勧請 (かんじょう: 仏神の霊や像を寺社に新たに迎えて奉安すること )したものと伝えられ、山田神社は平安前期の国史「三代実録」に記載のみにされている神社で、伊勢神宮の神々を勧請したものと言われる。 女子道社 明治時代の当社宮司・宮本重胤は、女性の自立のための全国組織「大日本敬神婦人会」を設立。 明治39年(1906年)にその機関誌『女子道』を発刊し、その資金源としておみくじの製造を開始しました。 全国各地の神社仏閣にみられるおみくじの自動頒布機を考案したのも同社で、おみくじも全国の約70%を生産しております。
神社の鳥居に種類があったの、知ってました? さらには形はなんでもかんでも自由にデザインされているわけではなく、神社の系統によってデザインが違うそうなんです。神明系と明神系とで違うというのは聞いたことがありましたがここまで細かく分類されているとは知りませんでした。 神社の”なぜ? なに?”というサイトに鳥居のさまざまな形を紹介した表が掲載されていました。神社に行くときはこの表でチェックですね。神社巡りがより一層楽しくなりそう。 先日紹介した仏像の楽しみ120%アップ!仏像の手の形を解説した「仏さまのハンドサイン」もそうですが、こういったシンプルなイラストで紹介してくれると受け入れられやすいですし、楽しみ方が増えて良いですよね。 この表を公開しているサイトでは神殿の様式のいろいろなるページまであってすばらしいまとめになっていますのでぜひチェックしてみてください! [amazonjs asin=
神社信仰といえば日本固有の信仰と考えられることが多い。だが、跡見学園女子大名誉教授の岡谷公二さん(84)は新著『神社の起源と古代朝鮮』(平凡社新書)で、滋賀、福井、島根などの多くの神社に、古代朝鮮の王国・新羅(しらぎ)の刻印が残ることを伝える。 前作『原始の神社をもとめて』(同)と合わせると、古代には東アジアに共通する原初の信仰が広がっていたことを感じさせる。 新羅崎(しらぎざき)神社、新羅善神堂(しんらぜんしんどう)、新羅(しんら)神社……。滋賀県や福井県などには今もこうした名称の神社が残っている。白木(しらぎ)神社、白鬚(しらひげ)神社など新羅を思わせる神社を含めると、「新羅系神社」は相当数に上るという。岡谷さんはこれらを一つひとつ訪ね歩き、『日本書紀』や各地の風土記を読み解きながら、古代における「新羅系渡来人」の流れを浮かび上がらせる。「製鉄技術などが朝鮮半島から伝わったと考えると、
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