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![脳、神経、心、意識、主観~「精神」とは何か~](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/fdd1f657937365ad474f638f4d5108ad75787a37/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fmedical.nikkeibp.co.jp%2Fall%2Fthumb_l%2F574878_l.png)
「障害」の概念とその表記の仕方 この問題について検討する前に、そもそも障害や疾患とは何をさすのかについて少し論じよう。最近ではわが国では少なくとも精神科領域では「精神疾患」の代わりに「精神障害」の表現が用いられるようになって久しいが、それは欧米の診断基準である DSM や ICD が標準的に用いている “disorder”(通常は「 障害」と訳される)という呼び方に対応して用いられているという事情考えられる。しかし「精神障害 」の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとうということから、最近では代わりに「障碍」ないしは「障がい」という表記をすることが多くなってきた。(ただし「碍」という文字の語源を調べると、これにも同様にマイナスな意味が含まれるようであり、果たして「障碍」への置き換えには意味があるのかという疑問も生じる。) そして最近はこの disorder がさらに「症」と訳される
「部分としての心」は存在するのか? 本書で取り上げている交代人格の人格としての在り方という問題意識は、しかしそれより一段階上のレベルの問題と関連している。それはそもそも心とは部分でありうるか、という問題だ。つまりこれは交代人格に限らない心の在り方を問い、それが基本的に部分ではありえない存在であり、統一体としての要件を備えているはずであることを示したいのである。すなわち心とはすなわち部分ではありえないという事を示すことで、交代人格も当然ながらその例外ではないから、部分ではありえないという論法を取ろうと考えているのである。だから本章の記述は交代人格よりは人格一般、心一般をテーマとしていることを最初にお断りしたい。 さて部分としての心、という事で私が思い出すのは、Shel Silversteinの「僕を探しに The Missing Piece」という絵本である。主人公はいつも何かが欠けていると
DIDの裁判 最近の動向 再び上原氏の2020年の論文に戻ってみる。そこで上原氏が中心的に論じているのが、平成31年3月の覚せい剤取締法違反事件である。この裁判ではDIDを有する被告人は覚せい剤使用の罪で執行猶予中に、別人格状態で再び使用してしまったという。そして原級判決では被告人に完全責任能力を認めた(つまり全面的に責任を負うべきであるという判断がなされた)が、控訴審では被告人が別人格状態で覚せい剤を使用したために、心神耗弱状態であったと認定したのである。 ちなみにDIDにおいて責任能力を認めるか否かという議論には、精神医学的な見地が大きく関係している可能性がある。そして裁判においても、精神科医による精神鑑定の見解をできるだけ尊重するという立場が最高裁において下されているという(上原、2020)。この上原氏の紹介する覚せい剤使用のケースではそこで私的鑑定を報告した精神科医の意見が尊重され
おれは医者ではない。医学生でもない。患者である。精神障害者である。双極性障害(躁うつ病・双極症)II型である。手帳持ちである。「当事者」と呼ばれる人間である。 おれはおれの病気について語るのが好きだ。 自分に興味があるというか、自分に取り憑いた病気に興味があるというか、なんと言うていいかわからないが、とにかく自分の病気について発信したいという気持ちがある。 そして、発信する前に、自分の病気について知りたいという気持ちがある。 当事者の、そして医師の話を聞きたいと思う。なので、いろいろな精神病の本などを読む。 これがおれだけの話なのか、双極性障害の人間ならではなのか、病気になった(障害を持った)人間ならではなのかはわからない。 というわけで、精神科医の書いた本などを読む。 すると、たまに出てくる名前がある。神田橋條治である。 最初に見かけたのは中井久夫の本だったと思う。 『双極II型障害とい
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