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2024年4月8日のブックマーク (5件)

  • 『大阪の麻田剛立(天文学の祖)ー新大阪物語(941)』

    この人物をぬきにして、天文学は語れない。 日近代天文学の祖と呼ばれる麻田剛立。 麻田剛立(1734-1799) 姓綾部氏。脱藩後大坂で姓をかえ浅田氏。 名妥彰。字剛立。号彰庵。通称庄五郎。 豊後国杵築藩(大分県)の儒者綾部安正の 四男で、幼い頃から斎静斎(1729-1778) の医学書「傷寒論」を読む傍ら、天文・暦 術に関心を抱き、独学で天文学を研究して いた。 藩医にとりたてられた剛立は、天文の研究が 進まず辞職を申し出るが許可得れず、脱藩し、 大坂の中井竹山・履軒のもとに身を寄せ姓を 麻田と改める。(安永元年・1772) 剛立が世に知られたのは、官暦に記されてい ない日(1764.9.1)を前年に予言的中さ せたこと。さらに官暦が安永8(1778)年 の8年後に部分日とするが、剛立が同年( 天明6年・1786)年元旦に日と予測し、的 中させ当代随一の天文学者と称された。 漢訳

    『大阪の麻田剛立(天文学の祖)ー新大阪物語(941)』
  • http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc11606.pdf?file_id=6927

  • 浄春寺・松尾芭蕉の供養碑と麻田剛立のお墓 - まち遊び寺社巡り古墳歩き

    梅旧禅院の後は、お向かいの「壬生勝鬘山 浄春寺」。 此方にも松尾芭蕉の供養碑と芭蕉反故塚が門前に存在しますが、目的は麻田剛立のお墓。 麻田剛立とは、1734年豊後国杵築藩に儒者 綾部絅斎の4番目の子として生まれ名は綾部妥彰、幼い頃から天体に興味を抱き、医学を学ぶ傍ら、天文学、暦学を独学、脱藩して大阪に移った後は麻田剛立と名乗って、医者をしながらひたすら天文の研究を続け、天体現象を観測しその結果を検証するという近代的な天文学を日で初めて行なった天文学者です。 ケプラーの第3法則を独力で解明していたり、午線儀、象限儀、垂揺球儀など多くの観測機器を考案・改良、オランダから輸入した高倍率グレゴリー式反射望遠鏡を使い日最古の月面観測図を完成。 月のクレーターの一つ「アサダ」は、麻田剛立の名に由来します。 麻田剛立の伝記は、鹿毛敏夫著「月のえくぼ(クレーター)を見た男」に詳しいですが、その業績は

    浄春寺・松尾芭蕉の供養碑と麻田剛立のお墓 - まち遊び寺社巡り古墳歩き
  • https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1967/pdf/19670904.pdf

  • 杵築 Ⅱ - 史跡訪問の日々

    (萬力屋) 今年(令和四年(2022))のGWは、半年も前から大分・宮崎の旅を計画していた。その時点では、新型コロナ・ウイルスの感染状況が不透明であったが、取り敢えず往復のフライト、レンタカー、宿泊先は早々に予約を済ませた。幸いにして、感染者は減少傾向にあり、三年振りに行動制限のない五月連休となった。 以前、大分県を旅したのは、六年前のことである。思い起こせば福岡県から大分県に入ったところで、日田から杵築にかけて大雨に見舞われた。今回の五泊六日の旅は、比較的天気には恵まれたが、初日だけは天気予報とおりずっと雨であった。六年前の杵築、日田もひどい雨だったので、その続きを見ているようであった。 六日間のレンタカーの走行距離は千五百七十キロメートル、万歩計の歩数は十三万四千歩を越えた。撮影した写真は、千二百五十枚を数えた。おかげで非常に充実した旅となったが、例によって朝は前日にコンビニで購入し

    杵築 Ⅱ - 史跡訪問の日々
    i92study
    i92study 2024/04/08
    麻田剛立の説明の主語が浅見絅斎(安正)になってしまっている。(「安正は藩主の侍医を務めながら脱藩し...」)