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内田樹と自己分析に関するijustiHのブックマーク (9)

  • 人間はどうして労働するのか - 内田樹の研究室

    『日の論点2010』(文藝春秋)が届いた。 そこに「労働について」一文を寄せている。 こんなことを書いた。 「働くとはどういうことか」 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。 (1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。 (2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。 だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹が

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    ijustiH 2009/12/24
    「人間の人間性を基礎づけること」「大人になること」「適切なしかたで贈与が行える人間になること」
  • ご飯を作り、お掃除をすることの英雄性 - 内田樹の研究室

    午から取材。BPという雑誌の村上春樹特集。 村上作品はどうして世界的なポピュラリティを獲得したのか、という問いに対して、「ご飯とお掃除」について書かれているからであろうとお答えする。 世界中、言語や信教や生活習慣がどれほど違っていても、人々は「ご飯を作り、掃除をする」ということにおいて変わらない。 いずれも人間にとって質的な営みである。 「ご飯を作る」というのは、原理的には「ありもの」を使って、そこから最大限の快楽を引き出すということである。 金にものを言わせて山海の珍味を集め、腕のいいシェフに命じて美を誂えさせるというのは「ご飯を作る」という営みの対極にある。 「ご飯を作る」というのは、人類史始まって以来のデフォルトである「飢餓ベース・困窮ベース」に基づいた営みである。 その基は「ありものを残さず使う」、もっと平たく言えば「えるものは何でもう」である。 村上春樹作品には「ご飯を

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    ijustiH 2009/06/27
    限定的な条件を受け容れ、与えられた条件でベストを尽くすようなご飯の作り手
  • 学院標語と結婚の条件 - 内田樹の研究室

    新学期が始まる。 6日に入学式。 飯新学長の「ことば」を聞く。 学長就任の挨拶でもそうだったけれど、学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基理念をつよく訴える内容であった。 この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。 でも、私はそう思わない。 これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。 私たちの社会がこの 20 年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。 「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。 学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。 それは具体的な教育プログラムのことではないし

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    ijustiH 2009/04/17
    自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよい/だれとでも友だちになれる
  • 村上春樹氏の朝ご飯 (内田樹の研究室)

    青山さんから「村上春樹の朝ご飯」についてエッセイを書いて、という仕事が回ってくる。 雑誌の編集者さんというのはいろいろなことを思いつくものである。 「ご飯」というのは人類学的にはたいへん重要なものであるということは先般より繰り返し申し上げている。 とくに身体的「同期」(シンクロニシティ)がたいせつなのである。 誰かとご飯をべるということは、他者と身体的に同期するためのもっとも実効性のある方法の一つである。 音楽の演奏も、ダンスも、セックスもその点では変わらない。 私たちが「快楽」として選択するものはすべて「同期」というファクターを含んでいる。 スティーヴン・ストロガッツの『SYNC−なぜ自然はシンクロしたがるのか』によると、「ものごとを同期に向かわせる傾向は、原子から動物、あるいは人類から惑星にいたる広大な宇宙で、最も広範に見られる『動因』の一つである」。 長期的に同室にいる女性の友だち

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    ijustiH 2009/04/07
    教養とは→/情報の被制性やイデオロギー性についてのリテラシー
  • かっちゃん - 内田樹の研究室

    隔週で短いエッセイを連載をしているので、『AERA』が毎週送られてくる。 寝転がって今週号をぱらぱら読んでいたら、なかほどのグラビアに「特別企画21世紀大学」というタイアップ記事があって、そこに昭和大学が取り上げられていた。 あら・・・と思って、半身を起こして頁に目をこらしたら、小口勝司理事長が笑ってこちらを向いていた。 「かっちゃん」は日比谷高校の一年生のときの級友である。 ぼくは大田区のはずれのカントリーフレイバーな中学から日比谷高校に入って、がちがちに緊張していて、一年生のときから勉強ばかりしていた。 「かっちゃん」は神田明神の境内に住んでいる江戸っ子で、ぱりっとしたシティボーイだった。 ぼくはなんとなく敬して遠ざけ、前期の半年の間、たぶん一度も口をきいたことがなかった。 後期になってぼくは生徒議会の議員というものに選出され、その集まりが昼休みにあり、午後の授業に数分遅刻して教室に入

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    ijustiH 2008/11/14
    かっちゃんは「おしまいがあるから楽しいんだよ」とちょっと悲しそうな眼をした。「さあ、おとなになろうぜ」/人生ごっこ遊び、さっきもみたなsee/past you again
  • 悲しい知らせ - 内田樹の研究室

    悲しい知らせがある。 私にとって悲しい知らせであるばかりか、私と遊びたがっている友人のみなさんにとっても、私に仕事をさせたがっている編集者のみなさんにとっても悲しい知らせである。 昨日、「恐怖の役職者選挙」があり、その結果、私は入試部長に選ばれてしまったのである。 入試部長というのは入試事務全体を統括する仕事である。 入試に関する全業務(はんぱな量じゃないんだよ)に直接、具体的にコミットしなければならない。 ましてや現在は「大学淘汰」の戦国時代である。 実働時間も拘束時間もこれまでより増えることはあっても減ることはない。 どうやら大学を退職する日まで、老骨に鞭打ってフルタイムで働くことを余儀なくされそうである。 というわけで、今日より退職の日まで、これまで約束したものを除いて、執筆、講演その他もろもろのお仕事はすべてお断りしなければならない。 これまでも何度も「断筆宣言」をしているので、私

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    ijustiH 2008/11/03
    心身の疲労を「気の張り」だけで保たせてきた場合、「張り」が抜けたとたんに、無理にためこんでいた疲労が雪崩のように押し寄せる
  • 感情教育 - 内田樹の研究室

    ようやく夏休みらしくなってきた。 今日は朝日新聞の取材が一件あるだけ。 朝からゲラをさくさくと片付ける。『現代霊性論』の初校がほぼ終わりが見えてきた。 それでも机の横にはゲラが高さ30センチほど積まれたままである。 4冊分か5冊分あるらしい。 そんなにを出してどうするのであろう。 私の書評に「どれも同じ内容である」ということを以て難じる方がおられるが、そんなことは言われなくても書いている人がいちばんわかっており、かつ困惑しているのである。 月刊誌なみのペースで単行を出していれば、内容が同工異曲というよりはほとんど同工同曲となるのは勢いのしからしむるところである。 そんなにを出す必要はない、せいぜい2年に1冊くらいでよろしいのではないかとほとんどすがりつくように申し上げているのであるが、編集者たちはこの懇願にまったく耳を貸す様子がない。 彼らは口を揃えて「たしかに他の出版社の

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    ijustiH 2008/08/07
    「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。/(ちょっとイタいけど)"抑圧系"の自分を重ねる
  • 記号的な殺人と喪の儀礼について (内田樹の研究室)

    秋葉原の事件について平川くんが書いている。 http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/ 彼のオフィスは秋葉原だから、まさに目と鼻の先で起きた事件である。 平川くんはこの事件については「よくわからない」という節度を保とうとしている。 確からしいことは、「かれ」は俺たちがまだ見出せていないような「必然」によって社会との繋がりから切断された存在になっていたということだけである。 その「必然」が見えなければこの事件は被害者と加害者というような明確な輪郭を持ってはいても、加害者の中に広がっていった闇については何もわからないままである。 もっと、言うなら、その闇の意味を見出せないままに書かれた「再発防止」の処方は、その闇を隠蔽し、広げるだけだと、俺は思う。 私は最後の部分が平川くんのとくに言いたいことだろうと思う。 無差別に人を殺すことを決意した人間の中にある、私

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    ijustiH 2008/06/12
    話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する/他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。
  • 「平八」的なものについて - 内田樹の研究室

    恒例の「美山町のコバヤシ家で山菜天ぷらをべる会」に5、6日と出かける。 ノコさんに会う。 7、8年ぶりである。 ノコさんはコバヤシ家のオハギとともに、私の Ex-wife の中学高校時代のおともだちであり、私たちが九品仏にいたころ、すぐお隣に住んでいた。 どうして別れたの子ども時代の友人たちのご友誼を私が賜っているかについては説明するのが面倒なのであるが、私は基的に「一度お友だちになった人とは、ずっと友だち」という人なのである。 世の中には引越をしたり、仕事を替えたりすると、それまでの人間関係をあっさりリセットしてしまう人間がいるけれど、私はそうではない。 みなでお茶しながら、「でね、あそこの家たいへんなのよ」「あら、そう。お嫁さんがそれじゃね」というような会話を延々と続ける。 もりあがったのは当然「ミヤタケ」の話である。 これは子細あって詳細にわたっては言及することができぬ。 考え

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    ijustiH 2008/05/07
    すべての友人の分だけの数の「内田樹」が解離的に存在しており、私は定期的にそれを箱から取り出して、埃を払って、油を差して、また箱にしまうというようなことをしている
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