●言葉によってすべてを把捉したいと思っている人、というか、たんに「言葉」が一番偉いと思っている人は、「言葉では把捉できないことがある」というような話をすると、すぐ神秘主義だとか「詩に逃げる」とかバカげたことを言い出すのだけど、全然そんなことじゃない。もっとありふれた、自転車に乗るとか泳ぐとか歩くとか喋るとか見るとかいうこと(それを「する」ということ)さえも、言葉では把捉できず、しかし人は、当然のようにそれやっている。なにかを「すること」は常に「具体的」なことだ。「泳ぐ」ということの詳細を言語によって「記述する」ことはできるが、それは泳ぐことを「把捉する(把握する)」こととは違っていて、その記述を読んだからといって泳げるようになるわけではない(記述が詳細になればなるほど、それは把握からは遠くなる)。こういう事を言うと、泳ぐことを記述することよりも、泳ぐことを実践する方が偉いと言っているかのよ