ブックマーク / www.10plus1.jp (5)

  • パタン・ランゲージの今日的意義──新たなコラボレーションのかたち

    イントロダクション:趣旨説明(藤村龍至) 藤村──『プロトタイピング──模型とつぶやき』(LIXIL出版、2014)は設計の際にプロトタイプとして各段階で作成されたプロセス模型の写真を時系列順に並べ、その下に「つぶやき」と呼んでいる1行くらいの文章を書いています。模型を見て現在の段階を要約し、それをもとに形態の特徴を抽出し、そこで発見したことを言語で表現してフィードバックする──。そのプロセスをつぶやきの連続で再現して、建築をつくる経験を読者が追体験できるような意図です。デザインをどう記録するかを検討することで「批判的工学主義」という考え方をデザイン・プロセス論へと展開させたものといってもいいでしょう。 このの最後では集団設計の事例(工藤和美+藤村龍至/東洋大学ソーシャルデザインスタジオ《鶴ヶ島太陽光発電所・環境教育施設》)へと展開しており、その先に井庭さんのおっしゃっている「創造社会」

    パタン・ランゲージの今日的意義──新たなコラボレーションのかたち
  • エレメントとエデュケーション──型と道からなる日本の建築デザイン:《Mozilla Factory Space》

    民家という厳格なエレメント 僕はいま小さな古民家の平屋に住んでいる。横浜のはずれに建つ築90年の家だ。 そんなに広い家ではないが、古いなりの雰囲気もあってそこそこ気に入っているので「草荘(SOSO=そこそこ)」と名づけた。玄関は2畳の土間。その横に4畳半の畳の附室があり、8畳の居間、6畳の寝室、キッチンは4畳、その周りを縁側が周り......と、きわめて一般的な日家屋の体をなしている。こうして私たちが日の古建築の説明をするとき、つねに畳という極めて厳格なエレメント、つまり型(かた)を基準に話をすることになる。すべての建築が同じルールでできていた。これはよく考えると、ものすごいことなのではないか。ここでは日建築の基礎となってきた型とその思想についての話をしたい。 さて実際に日家屋に住むと、床のみならずあらゆるものが畳を基準に設計されていることに気づく。縁側の板間の幅やトイレ、キッ

    エレメントとエデュケーション──型と道からなる日本の建築デザイン:《Mozilla Factory Space》
  • 流動する社会と「シェア」志向の諸相

    宮台真司氏(左)、門脇耕三氏 「シェア」の概念──「純粋公共財」と「クラブ財」 『私たちが住みたい都市』 (山理顕編、平凡社、2006) 門脇耕三──今回の「10+1 website」の特集は「シェアの思想/または愛と制度と空間の関係」と題しており、「参加と包摂」を旨とする民主主義の回復と倫理の関係についてさまざまなステートメントを発せられている宮台さんと、このタイトルが含みうるフィールドや空間の現在と今後に関して、複層的に考えたいと思っています。今日はよろしくお願いします。 いま「シェア」をめぐるさまざまな動きが注目され、建築を学んでいる学生にも「シェア」は非常に注目されています。卒業設計のテーマとしてシェアハウスやフラットシェアを選ぶ学生も多くいます。ただ建築系の学生の場合、どうしても文献的な掘り下げが追いつかず、「近代家族」という概念すら知らないまま「シェア」について語っていたりす

    流動する社会と「シェア」志向の諸相
  • 地上の唯物論(石川初『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』書評)

    〈場所〉についてのである。 どこでもよいのだが、あるときある場所にいた、としてみよう。あたりをただぼんやり見ているかぎりでは日常的な光景が目に映るばかり。しかしさまざまに具体的なフォーカスをもって見ていけば気がつかなかった事物のつながりが見えてくる。求めよ、さらば与えられん、というわけだ。そこには一定の一般性が観察され、また多かれ少なかれ固有性が見出される。その一般性は世界の成り立ちをあらためて確認させ、その固有性はその場所特有の来歴と可能性を端的に示してくれるだろう。 ある場所のリアリティは、それを読み取るリテラシーによって豊かになるのだ。 そうしたことに触れることはとても面白いし楽しい。その面白さ自体についてはあえてつべこべ言うまでもないだろう。 実は書は評者に『アメリカン・ボーイズ・ハンディブック』というを思い起こさせる。20世紀初頭にアメリカでベストセラーになった少年のための

    地上の唯物論(石川初『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』書評)
  • 「拡張現実の時代」におけるプロシューマー論の射程──宇野常寛+濱野智史『希望論──2010年代の文化と社会』

    東日大震災の発生から当分の間、この未曾有の災禍がもたらす日社会の構造転換に、人々の不安と期待が集まっていた。しかし、発災から1年が過ぎたいま、むしろ社会の「変わらなさ」のほうが一段ときわだって見えることは、ここで多言を要しないであろう。僕たちは日々、日社会の「変わらなさ」に辟易しているが、ひとたび視角を変えれば、それは微かな希望にも見える。 宇野常寛氏と濱野智史氏は東日大震災を、ポスト戦後日社会におけるダメ押し的な「でかい一発」と捉える。震災によって初めてもたらされた諸現象よりも、むしろ震災によって露呈され、浮き彫りになってきた事柄に目を向けることで、緩効的な「希望」の処方箋を提示しようというのが書の企図である★1。 そこで、書の随所で参照されているのが、先立って宇野氏の単著『リトル・ピープルの時代』で提起された「拡張現実の時代」というテーゼである★2。これは社会学者の見田宗

    「拡張現実の時代」におけるプロシューマー論の射程──宇野常寛+濱野智史『希望論──2010年代の文化と社会』
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