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  • 詭弁対処法

    頻繁に使われる詭弁を退けるための実用書です。議論の場でプリントを配布しておくと良い。 完全に整理するのは無理なので多少の重複はあります。 トップへ まとまった例工事中(洗脳セミナーなどで使われるものと、それ用の対策を書きます) 正しい答はひとつだけではない←〔正解がひとつきりか複数か〕と〔或る一つの答が正しいか〕は関係ない。また、 二律背反に整理して一点ずつ明らかにする進行なのだから正解は常にひとつである。 (自分への反論に対して)わからないじゃないか←はっきりした意見に逆のはっきりした反論を返したのであって、 それが正しいか不明なら元の意見は崩れる。「犬だ」に対し「だ」と反論した場合、再反論が「かどうかわからない」では おかしい。犬であるならではないとはっきりわかる。 言葉尻をとらえるな←では言い直すのは簡単ですね。その言葉を外してどうぞ。 君だって間違いはあるだ

    inukorori
    inukorori 2010/11/30
    ほほう
  • カント × バークリー

    実在性の場所 バークリーの基的なアイディアは、実在性の場所を移すことであった。  ロックが、第一性質、第二性質の区別(バークリー対ロック参照)によって主張したのは、主観的なものと客観的なものとの区別であった。ロックはそれによって客観的なものの領域を囲い込むことができると考えたのだ(これがロックの甘いところであった。因みに第一性質、第二性質の議論はロックに近いところではスピノザ、その前にはホッブズ、遡れば中世にもある)。ところが、バークリーはそんな区別はないと言う。なぜなら、バークリーにとって「実在的」だったのは、客観的なものではなく、主観的なものだったからである。これが「存在とは知覚である」命題の意味である。こうして、バークリーは、「主観的観念論」と呼ばれることになる。この場合、大抵は、上に「極端な」と付くのが世間(哲学史)の常識である。私が居なくなれば世界も消える。  しかし、こうした

    inukorori
    inukorori 2010/11/14
    「存在」ってめんどーなんだなあ。
  • スピノザ × ヒューム

    実体的精神の批判 スピノザはデカルトから実体という言葉を受け取ったが、デカルトが精神を有限実体だとしたのに対して、実体の定義から考えて、実体は一つしかないし、無限でなければならないと考えた。つまり神である。だから、これ以外はすべて実体ではない、様態である。実体は一つだが様態は多数で、互いの関係の中で規定される。我々が自分の精神だと思っているものは、だから、様態か様態の集合にすぎない。だから精神(意志)の自由もないのだ。人間の精神は実体でも主体でもない。スピノザが認めるのは沢山の観念(これは様態)であって、精神は観念から構成されている(→デカルト対スピノザ)。  ヒュームの考えも、自我といった実体を否定することに関してはスピノザと同じことだ。自我なんかない、それは知覚の束にすぎない(→バークリー対ヒューム 自我について)。しかし、ヒュームがスピノザと違うのは、その束の元になっているものである

    inukorori
    inukorori 2010/10/22
    んー。
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