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2015年1月5日のブックマーク (6件)

  • 横浜駅SF

    柞刈湯葉(いすかり・ゆば) @yubais 小説で生計を立てている。『横浜SF』『人間たちの話』『まず牛を球とします。』など。お仕事の連絡は Gmail: yubaiscariot まで。 yubais.net 柞刈湯葉(いすかり・ゆば) @yubais 横浜駅は「完成しない」のではなく「絶え間ない生成と分解を続ける定常状態こそが横浜駅の完成形であり、つまり横浜駅はひとつの生命体である」と何度言ったら 2015-01-04 13:05:29 柞刈湯葉(いすかり・ゆば) @yubais 西暦30XX年。度重なる工事の末にとうとう自己複製の能力を獲得した横浜駅はやがて州を覆い尽くしていた。三浦半島でレジスタンス活動を続ける主人公は、謎の老人から託されたディスクを手に西へ向かう。 「横浜駅16777216番出口(長野~岐阜県境付近)へ行け、そこに全ての答えがある」 2015-01-04 13

    横浜駅SF
  • 「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱える"リフォーム"問題とは【東京2020】

    現在の国立競技場はすでに取り壊しが始まっている。2020年の東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設計画をめぐって、コンペに当選したデザインがそのまま建たないなど、混乱が起きている。こうした問題はなぜ起こったのか。

    「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱える"リフォーム"問題とは【東京2020】
  • 未だフルアナログの写真家、Andre D. Wagnerが考えていること

    未だフルアナログの写真家、Andre D. Wagnerが考えていること2015.01.04 15:00 忠実に再現するにはデジタルじゃダメなんだ。 ご存じの通り、未だにフィルムで写真を撮り続けている人は決して多くはありません。撮影したフィルムを自分で現像する人はさらに少なく、暗室でプリントまで行う人は、当に希有な存在といえるでしょう。 Andre D. Wagnerさんは、その希有な写真家のひとり。 この動画は彼の写真が出来るまでのプロセスが見られるだけでなく、彼のストリートフォトに対する向き合い方まで見せてくれます。映像自体はありふれたポートレイトの映像のようですが、私がこれを気に入っている理由はいくつかあります。 ひとつは、前述したアナログで写真を作るというプロセスのうち、特にプリントの工程です。多くは、フィルムで撮影したとしても、そのネガをスキャンしデジタルで処理する人が大多数で

    未だフルアナログの写真家、Andre D. Wagnerが考えていること
  • NHK Eテレ 建築は知っている ランドマークから見た戦後70年(出演:藤村龍至、語り:松重豊、橋本奈穂子) につていのつぶやきまとめ(2015.01.04)

    1月3日土 NHKEテレ1午後11時00分~午前0時30分 建築は知っている ランドマークから見た戦後70年 東京タワー、霞が関ビル、六木ヒルズ…。今も東京を彩る代表的な建築物は、いかなる時代の空気の中生まれたのか?時代のランドマークとなる巨大ビルと戦後のエポックメーキングな出来事を重ねる。戦後70年となる年に、敗戦の焼け跡から現代まで時代と共に変化してきた建築のだいご味を味わう。戦後ニッポンを支えた建築家の、その建築にかけた“思考”や“願い”を見ることで、日の未来への想像力を見いだす、新春特集。 【出演】建築家/東洋大学専任講師…藤村龍至,【語り】松重豊,橋奈穂子 続きを読む

    NHK Eテレ 建築は知っている ランドマークから見た戦後70年(出演:藤村龍至、語り:松重豊、橋本奈穂子) につていのつぶやきまとめ(2015.01.04)
  • 沖縄少ない1945年生まれ 赤ん坊に過酷な戦禍 | 沖縄タイムス+プラス

    沖縄戦があった1945年の前後に生まれた人々は他の世代に比べて少なく、乳飲み子が戦禍の中で生き延びる過酷さを物語っている。最大の激戦地となった糸満市は、沖縄戦当時に籍があった市民を対象に戦災調査を実施している。市史などによると、45年1月1日から、沖縄の日軍が降伏調印した9月7日までに県内外で生まれた赤ん坊は318人で、36年からの10年間の同期間では最少。最も多かった43年の755人と比較すると、4割余にとどまった。  このうち、県内で出産した母親は196人で、誕生したのは双子も含めて198人。戦没者は母親が28人(戦没率14・3%)に対し、赤ん坊が81人(同40・9%)で、赤ん坊の戦没率が母親の約3倍に上った。また赤ん坊の戦没率は、母親生存の場合は33・1%なのに母親戦没では86・2%に跳ね上がり、赤ん坊の生死が母親に委ねられていた実態がうかがえる。  同市史編集委員会は時代背景に

    沖縄少ない1945年生まれ 赤ん坊に過酷な戦禍 | 沖縄タイムス+プラス
    irbs
    irbs 2015/01/05
    私の母親は米軍上陸中の名護の山中で生まれ、栄養失調状態のところを米軍人から分け与えられたミルクで凌ぐことで生き延びた。戦争行為は人類の黒歴史としてこの世界から抹消されなくてはならない。
  • 米軍、1943年に普天間飛行場検討 沖縄戦の1年半前 - 琉球新報デジタル

    1943年10月に米軍内部で検討された資料で示された、沖縄島の滑走路建設候補地。現在の嘉手納飛行場、普天間飛行場、那覇空港と同じか、極めて近い位置に候補地が示されている 【ワシントン=島袋良太紙特派員】沖縄戦が始まる1年半前の1943年10月の段階で、米軍が沖縄島を占領した上で、現在の嘉手納基地、普天間飛行場、那覇空港と同じか極めて近い場所に滑走路建設を検討していたことが、米機密文書で分かった。 一方、44年7月の別の機密文書によると、滑走路建設を計画していた中南部が人口密集地であることを把握していた。基地被害に関して「基地建設後に住民が周辺に住み着いた」との米国関係者らの主張にも一石を投じそうだ。さらに戦争中の民間地奪取を禁じたハーグ陸戦条約を無視して滑走路建設が検討された可能性を示す文書もある。 機密文書は米国立公文書館が所蔵し、機密指定は解除されている。 滑走路建設を示した文書

    米軍、1943年に普天間飛行場検討 沖縄戦の1年半前 - 琉球新報デジタル