岩手県奥州市にある菊田一夫記念館(右側の蔵) 神奈川県横浜市生まれ[1]。生まれてすぐ養子に出され、生後4ヵ月で両親(西郷姓)に連れられて台湾に渡ったが、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった[1]。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめた[1]。その後神戸の元町の骨董店で丁稚奉公を務めながら、夜間の商科実業学校(現・神戸市立神港高等学校)で学ぶ[1]。この時期に文学に興味を抱き、1923年結成の「元五青年団」の機関誌『桜草』の編集人を務めた[1]。 1926年(大正15年)に上京して印刷工となる傍ら、萩原朔太郎やサトウハチロー、林芙美子、小野十三郎らと出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る[1]。そののち、1933年(昭和8年)に古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作