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タイに関するisaisstillaliveのブックマーク (7)

  • 『日本語の呼称・『シャム』の由来』

    節穴から覗いた歴史の一齣 旧タイトル:タイに魅せられてロングステイ 前タイトル:29年ぶりに帰国した浦島太郎の草双紙 バンコク➡湘南辻堂➡東京都多摩東部へ転居しました。 日が江戸時代だった頃、日人はタイのことを『暹羅(しゃむろ)』と呼び、明治時代に入ってから『暹羅(シャム)』と呼び始めた・・・という僕の勝手な推論を、前回のBLOG(2007年10月18日)に記しました。 『暹羅(しゃむろ)』の論拠は、1732年(享保17年)刊行の『和漢三才図解』の記述。『シャム』の論拠は、編纂から173年後の1882年(明治15年)になって漸く刊行された『西洋紀聞』の記述です。 『西洋紀聞』 話は飛びますが、19世以降、タイは自国のことを、『サヤーム สยาม 』と呼ぶようになります。 更に、1939年に国家主義者がタイ国の政権を手にすると、『サヤーム』の国名を『タイ国』(プラテート・タイ ประเ

    『日本語の呼称・『シャム』の由来』
  • 『漢語の『暹羅』・日本語読みは?』

    節穴から覗いた歴史の一齣 旧タイトル:タイに魅せられてロングステイ 前タイトル:29年ぶりに帰国した浦島太郎の草双紙 バンコク➡湘南辻堂➡東京都多摩東部へ転居しました。 2007年9月15日付けのBLOGで、酔っ払った日人駐在員同士の 『タイなの?シャムなの?』を採り上げました。 酔っ払いの居酒屋談義なので捨て置けば良いのでしょうが、何となく充たされない気持ちが続いていました。 その時のBLOGの最終行を読み返して見ると、そんな僕の心持ちが次のような文章で残っていました。 『日語表記の“シャム”』という旧称は、『Sayaam สยาม 』 という呼称が訛って変化したのだと思いますが、チャンスがあれば、タイ語の旧称『Sayaam 』と、日語の旧称『シャム』の歴史的検証をしてみたいと思います』 その後、日に短期帰国した折に、国会図書館の関連図書を閲覧する機会があり、日で使用されてい

    『漢語の『暹羅』・日本語読みは?』
  • 東南アジア史(第7回 スコータイ朝とアユタヤ朝) - 歴史研究所

    アユタヤ朝は、日史を勉強していても登場する王朝です。何故かといえば、首都アユタヤの日人町と、この地で活躍した山田長政がとても有名ですから。日人だけでなく、この国では外人勢力が大変活躍しています。何故なら、王様が寛容だったから。 さてアユタヤ朝は、1350年にラーマティボティ1世(位1350~69年)による建国が始まりです。首都アユタヤは、現在のタイの首都、バンコクの北60kmの地点にあります。 建国されるや否やこの国は、いきなりスコータイ朝をはじめとする周辺国家を支配下に組み入れ、さらにアンコール朝クメール王国に対して繰り返し侵攻。このような中で、アユタヤ朝はクメール人官僚やその下で働いていた人を登用し、クメール的な統治方法を学習していきます。特に学んだのが、農民からの税の取り方だとか。 そして1432年には、アンコール朝はアユタヤの侵攻に耐えきれず、現在の首都プノンペンに遷都します

  • アユタヤ王朝 - Wikipedia

    アユタヤ王朝(アユタヤおうちょう、1351年 - 1767年)は、現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。三番目の王家(1569-1629)は、スコータイ朝の王家の末裔である[1]。 タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えた。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花し

    アユタヤ王朝 - Wikipedia
  • 『アユタヤ王朝の戦象が属した象局-2』

    前回ブログでは題を大きく逸れてしまいました。 話を筋に戻すことにします。 アユタヤ王朝の “ 象局 ” ( クロム・コッチャガム ครมคชกรรม ) は、 二つの部門に分かれていました。 ① “ お召し象 ” と呼ばれる王様の乗る白象を管理監督するセクション ( 象を初めて見た西洋画家が描いたなんとも稚拙な白象の絵 ) 象局に属する象部隊は、 インドとカンボジアから伝わった象学 ( コッチャ・ サーツ คชศาสตร์ ) に網羅されている 象相学 ( コッチャ・ラクサー คขลักษาณ์ ) と用象学 ( コッチャ・ガム คชกรรม ) に従って 部隊編成が組まれ、実戦に即した厳しい訓練が繰り返し行われていました。 ② “ 外象 ” と呼ばれる実戦を担う戦象( チャーン・スック ช้างศึก )の訓練を行うセクション ( タイ東北部のスリン県で撮影 ) 象学の中の用象学

    『アユタヤ王朝の戦象が属した象局-2』
  • 『アユタヤ王朝時代の騎象戦』

    節穴から覗いた歴史の一齣 旧タイトル:タイに魅せられてロングステイ 前タイトル:29年ぶりに帰国した浦島太郎の草双紙 バンコク➡湘南辻堂➡東京都多摩東部へ転居しました。 (前日のブログからの続きです) バンコクの北西、アユタヤの西側に位置するスパンブリー県は、 14世紀のアユタヤ王朝の創世記から18世紀のアユタヤ王朝の滅亡までの間に、 ビルマ王朝軍との“ 騎象戦 ”が幾度も行われた古戦場です。 1592年に行われたノーンサライの戦いの古戦場に建つナレースワン大王の騎象姿 ( 現在の地名はドーン・チェディー ดอนเจดีย์ ) 現在のスパンブリーの街中を歩いていると、 1592年のノーンサライの騎象戦でビルマ王太子を討ち取った ナレースワン大王をデザインした県章塔を至る所で見かけることができます。 ( 下写真 ) ナレースワン大王が象の首に跨って戦う雄姿をデザインしたスパンブリー県の金

    『アユタヤ王朝時代の騎象戦』
  • 古都アユタヤ/タイ [世界遺産] All About

    得意ジャンルは世界遺産・世界史・海外情勢・海外旅行・哲学・芸術等。世界遺産マイスター、世界遺産検定1級文部科学大臣賞受賞。出版社で編集者として勤務したのち世界一周の旅に出る。現在は東南アジアを拠点に海外旅行を継続しながらフリーの編集者・ライターとして活動。訪問国数は約100、世界遺産は約250に及ぶ。 ...続きを読む 旅情を誘う美しき廃墟 タイの古都アユタヤ アンコールを彷彿させる寺院や、ミャンマーのパガンを思わせる仏塔、タイ特有の僧院まで、東南アジアの文化を融合して14世紀に誕生したアユタヤ王朝。その王都アユタヤはビルマとの戦争で破壊され、廃墟となってしまったが、なぜだか胸を打つほどに美しい。 今回は、タイの首都バンコクから日帰りで行くことができる世界遺産「古都アユタヤ」を紹介しよう。 旅人を魅了する旅情の廃墟、アユタヤ

    古都アユタヤ/タイ [世界遺産] All About
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