いろいろな本を読みながら今考えていることを書いていきたいと思います。結構硬い話になるかもしれません。それに対してご覧になった方々がどうのような反応をされるのか楽しみです。ブログは始めてなので、ブログのうまい使い方が勉強できればとも思っています。
いろいろな本を読みながら今考えていることを書いていきたいと思います。結構硬い話になるかもしれません。それに対してご覧になった方々がどうのような反応をされるのか楽しみです。ブログは始めてなので、ブログのうまい使い方が勉強できればとも思っています。
日本と哲学 「日本に哲学なし」と言われる。哲学研究者は無数にいるが、哲学者はいない、有名な哲学者についての研究は行なわれているが、自ら思索することが行なわれない、というのである。これは残念なことに(例外はあろうが)真実である。哲学者たちは世界というテクストを解釈してきたが、ほとんどの日本人はその哲学者たちのテクストを解釈しているだけである。 哲学者研究の正当性 確かに、ある哲学者のあるテクストや他のテクスト(同じ哲学者の別の時期の、あいるは、同じ時代の別の哲学者の、等々)との連関を解釈する釈義的な研究は、それ自身まったく正当であるし、そのような哲学者研究に没頭している人間がいてもいい。あるテクストについて、新しい解釈を示して、従来の解釈を修正したり批判したり補ったりすることには、一定のオリジナリティーがある。 だが、もちろん、文献解釈に没頭するにしても、哲学をやる以上、少な
西洋哲学の背骨 デカルトは、 われが考えるからわれはある、とした。 根底にわれしかない。そして他のすべてに疑いの目を向けた。 他に存在するものが確かであるように神の誠実を期待した。=神がこのからくり世界を作った。 「われ」から出発する。 このような考えが他にも出た。 ジョージ・バークリー(1685年生まれ。アイルランド)。 「『存在する』は(私に)知覚されることである。」 バークリーの後継者ディヴィット・ヒューム(1711年生まれ。スコットランド)。 因果律に疑問の目を向けた。彼は無神論者。 「A→B」という因果関係は「私」と関係なく、世界の側で勝手に存在しているのではない。「私に」経験されて、繰返され「信念」となり、ようやく「A→B」ということが成立する。これにより神の出現を抑えた。 デカルトは「心」と「物」を分け、プラトンの「イデア界」と
心の哲学についてちょっと勉強してみて思ったことは、 心については、もう自然科学の領域に任せてしまえばいい、ということ。 哲学者ないし人文系の人間が何か携わることが出来るとすれば、個々の研究を繋ぐようなロードマップを作ったりインタープリターになったり、いわば整理整頓係だろう。 ところが、なお科学では心について解明することができないという意見もある。 だがそれは、心の哲学の問題というよりは、科学哲学ないし言語哲学の問題のような気がしている*1。 科学では説明のつかないことがあるとか、全てが科学で説明できてしまったら面白くないといって言われる話よりも、 科学で説明される話の方が、よっぽど面白いと僕は思う。 これは科学では説明できない、などと言われると、そんなのつまらないなあと思ってしまう。 カール・セーガンは、あるタクシー運転手にオカルト話だか陰謀論だかされたときに、科学の世界にはさらに面白い話
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