ブックマーク / hoshinot.asablo.jp (5)

  • 2012年5月5日(土): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

    おなじみ、農楽のパフォーマンスを、高校生ぐらいの若者が広場で披露しているのを見ながら、ケンガリ、チンの音に聞き惚れる。チョッカーラ、スッカーラ、鉄器、鉄の文化の音。特にチンの音には魔力がある。 韓国では仏様の誕生日のお祝いが、今月、盛大に行われるのだそうだ。このため、街じゅうに色とりどりのぼんぼりがぶら下がっている。先日、古刹を訪ねたときも、そのぼんぼりの美しさに圧倒された。ぼんぼりには、子どもの仏陀が右手の人差し指を天に向けているキャラクターっぽい姿が描かれている。再来週の夜にはこのぼんぼりが灯され、ソウルの大通りを、ねぶた祭りみたいにお釈迦様や象やその他の巨大な張り子の灯籠が盛大な行列を繰り広げ、農楽の者たちが踊り歩き、僧侶や子どもたちが提灯を掲げて行進をするという。楽しみである。 その中心となる曹溪寺(チョゲサ)に、今日の昼ごろ行ってみたところ、法要というのか、が行われていた。寺の中

    iteki
    iteki 2012/05/06
  • 2012年3月11日(日): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

    震災や原発事故について、それが小説の言葉となるにはまだまだ時間がかかる、なぜなら小説は最も遅れる表現媒体で、対症療法的なメディアではないからだ、と、作家の多くは実感していることだろう。自らがある種、失語症的な状態に陥っているのを、もどかしく感じている人も少なくないだろう。そのように語っている言葉もたくさん目にした。それは9.11のときもそうだったし、地下鉄サリン事件のときもそうだったし、湾岸戦争のときもそうだった。 にもかかわらず、小説自体は書かれている。文学業界の光景が一変することもない。一見、何もなかったかのようにそれ以前と同じ調子で小説は書かれ、たまにいち早く震災・原発事故を扱っている作品が現れても、それは質的に震災・原発事故を扱っているというより、視界に入ったものが映ってしまったというような感じだ。 かくいう私自身、震災前から準備していた長篇を、震災の少し後に連載としてスタートさ

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    iteki 2012/03/12
  • 2012年3月7日(水): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

    二〇一一年九月に東京で行われた脱原発の六万人デモに参加した。そのとき歩きながら考えたのは、「この社会で表現は可能か?」ということだった。一般参加のコースは、初めてデモに参加しているらしき年輩の方々や家族連れが多く、シュプレヒコールもなく、ただ黙々とのんびり散歩しているような歩き方だった。私にはそれが新鮮であり、心地よかった。デモは声を張り上げることだけが表現ではない。むしろ、人間の集団そのものの存在感がその表現力の核心だ。ありきたりなスローガンをいかにもデモっぽい口調で連呼するよりも、押し黙って大量の人が歩いていることの表現力のほうが、ずっと強い。なぜならそれは見慣れない光景だからだ。 私が、この社会で表現が成り立つのだろうか、と懐疑的になるのは、「見慣れない光景」へ踏み出すことの恐怖が社会に蔓延していると感じるためである。逆に言うと、現状は、「見慣れた光景」へ身をゆだねるようにしか表現が

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    iteki 2012/03/10
  • 2012年3月5日(月): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

    少し以前、「便所メシ」という言葉があった。大学生が、一人で事をしているところを誰かに見られたら、寂しい人として地位が下がるから、トイレの個室にこもって事を済ませるのだ。 他人の目線が、自分の評価のすべてになっているのである。自分の価値とは、自分で決めることではないのだ。そんな息苦しさは、自由気ままでいいはずの大学生ですら追いつめ、居場所を奪っている。 先日、ビッグイシュー基金の主催で行われた「若者ホームレス支援会議」に参加したとき、若い人の自己肯定感をいかにしたら育てられるかという話になった。今は若年層のホームレス化と自殺が急増しているが、その根の原因に、うまくいかないのはすべてダメな自分のせい、という自尊感情の低さがある。

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    iteki 2012/03/05
  • 2012年3月1日(木): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

    「指導者」を求める空気 その青年は苛立っていた。 子どものころから地味で目立たず、誰かから重要な人間だとみなされることもなかった。自分の価値のなさに絶望する一方で、自分を認めない社会にも恨みを募らせていた。 特に、すべてが金とセックスに換算されてしまう傾向に、憎しみを感じていた。自分の価値も究極的には、要するにいくらの金を生むのか、という一点で決められてしまう。私生活ではその価値が、男の場合は、どれだけモテるかと連動してくる。女の場合は、若さや容貌で計られる。同じ程度の金を生む人間であるなら、自分である必要はなく、誰でもよいのだ。 そんな尺度だけで自分が判断され、一生を決める仕事に就くのだと思うと、いっそ道を外れてしまったほうが楽だとさえ思う。けれど、凡庸な自分では、外れる勇気さえ持てない。 こんな社会は腐っていると思う。他ならぬこの「私」が生きているという最低限の実感すら持てないのだから

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    iteki 2012/03/02
    すべては青年とやらの内面が原因みたいな/ガイジンは一般人か
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