当時の特急にはほとんど食堂車があり、「ひばり」「あいづ」「はつかり」「雷鳥」「有明」といった都市間の本線を走る列車はもちろん、ディーゼル特急の「おおぞら」「おおとり」「やくも」「まつかぜ」「くろしお」などもほぼ全列車に食堂車が連結されていた。 今思えば、この時代が列車本数からしてみても食堂車全盛の時代だったのであろう。それから数十年、食堂車はどのような過程を経て定期列車から消えてしまったのであろうか。 戦前から洋食フルコースが 日本の食堂車の歴史は、1899(明治32)年に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)と官設鉄道(のちの国鉄)乗り入れの急行列車に連結されたのが始まりで、これは一等車利用客のためのサービスだったらしい。1930年代、当時の日本を代表する特急「燕」の料理は洋食のフルコースのほかに一品料理としてカレーライス、チキンライス、オムレット、ビーフステーキ、紅白の葡萄酒があり、車内改札時
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